【アセクシャルのこと】性愛について(脱線、自分語り多め)
先日、映画「94歳のゲイ」を観た。
詳しい内容は公式サイトなどに任せるとして、自分が同性愛者だということを隠して長年生きてきた長谷さんが、自分がゲイであることを受け入れ、語り始め、それに呼応するようにあたたかくて優しい空気が彼を包み始めた、というその事実に涙がこぼれた。
また、長年彼を取り巻いてきた社会情勢についての解説や、そこに関わってきた人たちへの丁寧なインタビューも、この映画に奥行きを持たせている。
同性愛が「異常」とされてきた歴史は、当事者にとってつらく、苦しく、屈辱的なことであったと思う。
今でこそ「さまざまなセクシュアリティを社会全体で認めていこうよ」といった「空気」はあるにせよ、社会的な制度がそれにともなっていないことにより、結局「空気」のまま、ふわふわ宙に浮いているように思う。
少し話が逸れたが、この映画を観て「性愛」について思うところがあったので、書いてみる。
今までに私が感じてきた「愛」は、「人類愛」とでも言えばいいのだろうか。恥ずかしげもなく、非常に大雑把で、伝わらないと思うけれど。
誰にもどこかに素敵なところがあると感じる、そして、そこを尊敬したり、もっと生かしてあげたいと思ったりする。
「そんなの人として当たり前じゃん!」と言われるだろうか。ただ、私にとってはそれが言うなれば「愛」である。
そこに恋愛やセックスは、ない。
「あの人、頭の回転が早くて、話が面白くて、素敵な人だなー」と思っても、「あの人と付き合いたい、セックスしたい」とはならない。
(間違っても、そう思う人のことを否定している訳ではない)
学生の頃、自分がみんなと同じように異性愛者だと思っていた頃、周りにいる男性がそれぞれに素敵で魅力的に感じられたが、誰一人とも恋愛関係への発展はなかった。
周囲にカップルができる度に、驚きと落胆と焦りが入り混じって、なんとも言えない気持ちになった。
うまく言えないが、性的な魅力を感じるセンサーみたいなものが育たなかったのか、もともと持ち合わせていないのか、とにかく性愛に疎く、相手に性的な雰囲気を感じると、怖くてとにかく逃げ続けた。
興味がない、というのとも違う。
必要ない、というのがいちばん近いだろうか。
自分語りが長くなった。
異「性愛」者も、
同「性愛」者も、
相手との間に「性愛」がある。
私は、相手との間に「性愛」を必要としない。
相手を敬い、素敵だと感じること、それが相手への「愛」だと思って生きている。
高尚だ、と言われるだろうか。
性愛を卑下していると思われるだろうか。
どう言われようが、私は上に書いたようにしか生きてこれなかった。
それを否定もしないし、肯定もしない。
ただ、それがあったから、今の自分に気づけた。
気づけたことで、生きるのが楽になった。
私は、アセクシャルについて、理解を求めようとはしません。
なぜなら、私も性愛者について、理解ができないからです。
お互いを対比する訳でも、否定する訳でもありません。
その軸だけで人を規定するのもおかしな話です。
人それぞれに、目に見えない悩みや苦しみがあること。それに思い巡らすこと。それだけで、隣の人に少し優しくなれるかもしれない。
そう信じながら、今日はここまで。
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