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第9回 ヴィパッサナー瞑想を通じて『智慧』を育む

“ストレスを手放し、心を解放しよう!”シリーズの第9回です。
前回の「アーナパーナ・サティからヴィパッサナー瞑想へ」を投稿してからだいぶ時間が経ってしまいましたが、今回はヴィパッサナー瞑想を通じて育むものについてお話したいと思います。

1.はじめに

心を浄化し、苦しみから解放されることを目標に、ヴィパッサナー瞑想を学んでいます。
学ぶ段階には、次の3つの段階があると思います。

第1の段階:ただ単にヴィパッサナー瞑想のテクニックを学ぶ段階
第2の段階:それを実際に修行する段階
第3の段階:究極の真理に至る段階

前回までは、第1段階と第2段階までを中心に、わかりやすくご説明をしてきました。

これからは第3段階である「究極の真理に至る段階」に関して、ご説明していきたいと思います。
ただ、これを説明するのは正直難しいですし、私自身も悟ったとは言えません。
毎日、ヴィパッサナー瞑想を実践していますが、、、
そのため、今回の執筆に関しては、どう説明するか悩み、何度も書き直しをしてしまい、公開するまでにだいぶ時間がかかってしまいました。

掲載後でも内容を変更していくかもしれませんので、ご了承のほどお願いします。

2.ヴィパッサナー瞑想を通じて『智慧』を育む

前回までに、「苦しみの原因」、「苦しみはなぜ生まれるのか」、「その苦しみから脱するためにはどうすればよいのか」、「どうしたら苦が取り除けるか」を説明しながら、瞑想のテクニックを説明してきました。

そして、心を浄化するために

・反応しないこと
・新しいサンカーラをつくらないこと
・心の奥深くにある、すべてのサンカーラを消滅させること

ここで言うサンカーラとは、広義の意味でのサンカーラになります。

6つの感覚器官との接触を通じて、「苦の車輪」が回りだし、好き・嫌いという反応を繰り返し、それに執着し、渇望や嫌悪を生み出し、心の中に固く凝り固まった汚濁、穢れ、心に強く結びつけている「心の縛り目」がサンカーラです。

このサンカーラを滅するために、ヴィパッサナー瞑想を行います。

苦を生み出す原因

ヴィパッサナー瞑想では

身体のどこかに必ず現れる「感覚」に気づき、快・不快の反応をしないで、静かな心で、ただ淡々と客観的にその「感覚」を観察する

どんな感覚が生じても、平静な心で、反応せずに、ただ観察します。
全身すべての感覚を観察します。

頭のてっぺんから少しずつ意識を下に動かし、つま先にまで移動させます。つま先に至ると、今度は、つま先から頭のてっぺんにまで移動させます。
からだの表面から内側へ、からだの内側すべて、からだと心のすべてを観察していきます。

すなわち、次の4つの真実を観察するのです。

・からだについての真実を観察する
・からだの感覚についての真実を観察する
・心についての真実を観察する
・心の内にあるものについての真実を観察する

今この瞬間に起っていること、自分のからだと心に起こっている現実をありのままに見つめ、その奥にある真実を観察していく必要があります。

それも、さまざまな角度から現実のあり様を理解することが必要です。

一つの角度から観るだけでは、部分的な真実しかわかりません。
歪んだ真実かもしれませんから、その全体を観察して確かめる必要があります。

そうすることで、『智慧(パンニャー paññā)』として育っていきます。

第6回でも説明しましたが、一般的なサマタ瞑想は、心を一つの対象や思考に集中させて、幸福感に満ちたリラックスの状態、心の静寂をゴールにしています。

しかし、ヴィパッサナー瞑想は、ただリラックスしている状態でも、心の静寂を求めているわけでもありません。

精神を集中し、平静な心を保ちながら、4つの真実を観察し、探求し、自分の体験を通じて『智慧』を得て、真理を悟ること

すなわち、自分自身で体験し、真実を観察し、『智慧』を育むことです。

智慧には3種類あります。

・本を読んだり、説法や講話を聞いたりした他人から聞いて得る知恵
・読んだり聞いたりした内容をよく考える頭で分析し考えて得る知恵
自分が実際に体験し、直接体得した智慧

本や経典を読んだり、説法や講話を聞いたり、頭で論理的に考えることも重要です。

しかし、ブッダは、どんなに知的なゲームや信仰ごっこにいそしんでも、自分自身で真実を体験し、その体験から智慧を育てていかない限り、解脱することができないことを発見したのです。

そして、からだと心の全領域には、次の3つの基本的な性質があることも発見しました。

からだと心の3つの性質の真理
・アニッチャ(anicca
 無常)
・ドゥッカ(dukkha
 苦)
・アナッター(anattā
 無我)

すなわち、4つの真実の観察を通じて、この3つの性質の『智慧』を育むことが必要になります。

この3つの性質の真理を悟ることより、心の奥深くにある微細なすべてのサンカーラを滅することができ、初めて心が浄化されることを発見したのです。

「わたし」「わたし自身」「わたしのもの」と思い込んでる、このからだ、この心、心の内なるものについて、表に現れる真実を貫くように、浸透するように観察し、深く探求していきます。
そして、分解し、分割し、溶解していくことで、次第に究極への真実に、真理に近づいていきます。

この真理を自分自身で直接悟り、『智慧』を育むこと、それがヴィパッサナー瞑想を学ぶ第3段階であり、究極の真理に至る道になります。

3つの性質の中でも、ブッダは常に「アニッチャ(無常)」の重要性を強調しています。

それは、「アニッチャ(無常)」という性質を深く経験するなら、あとの2つの性質は容易に理解できるようになるからです。

3.アニッチャ(無常)

ヴィパッサナー瞑想をして、全身の感覚を観察していると、すぐに感覚が絶えず変化することに気づきます。

一瞬一瞬、からだ中に何らかのさまざまな感覚が生じては、変化していることに驚きます。

あたかも感覚のオーケストラのようなものです。
いろいろな感覚が鳴り響いています。
強いもの、弱いもの、滑らかなもの、激しいもの、打楽器のようなもの、
さまざまな感覚が次から次に鳴り響いています。

全身を順番に観察していると、強い感覚から微細な感覚まで、つぎつぎに生まれては消え去ることが実感できると思います。

変化しないものなどありません。
痛みのような感覚が生じても、平静な心で観察していると、少し経つと消えていきます。

感覚は、アニッチャ(無常)であり、常に変化している。
生まれては消えていく

心も次から次に浮かんでくる雑念にとらわれ、すぐにさまよい出します。
雑念は、次から次に生まれては消えていきます。
心は、次から次に飲み込まれ、漂いだします。

アニッチャとは、“無常、はかなさ、変化すること“の意味です。

すべてはアニッチャであることを感じてください。

ヴィパッサナー瞑想をしていると、過去の嫌な、思い出したくない、哀しいサンカーラ、怒りや憎悪などのサンカーラ、トラウマになっているサンカーラが噴き出してきたり、突然襲ってきたりします。

このようなときは、心が乱されて嵐になってしまいます。
“すべてはアニッチャ”“これもアニッチャ、アニッチャ”と心の中で唱えると不思議と平静さを保てたりします。

全身の感覚を観察するだけではなく、からだとからだの奥になるもの、心と心の内にあるもの、4つの真実を観察するとき、すべてはアニッチャであることを感じてください。

1. 生じるという現象を観察し続ける
2. 消え去るという現象を観察し続ける
3. 生じては消え去るという現象を観察し続ける

この観察を通じて、すべてはアニッチャであるという『智慧』を育むことです。

この世の中に、安定したものも、変化しないものも、確かなものもありません。

すては、生まれては消え去るもの。

わたしの心もからだも、私の周りにある物質も、この宇宙にあるものすべて、この宇宙を構成しているミクロからマクロまで、宇宙そのものも、すべてがアニッチャです。

すべてのサンカーラは無常である
この真理を悟ったなら
苦から脱却できる
これが心の浄化の道である
(ブッダ)

4.ドゥッカ(苦)

ドゥッカ(苦)に関しては、第2回~第5回を再読してください。
この中で次の4つをご説明しています

・苦しみの原因
・なぜ苦しみは生まれるのか
・その苦しみから脱するためにはどうすればよいのか
・どうしたら苦が取り除けるか

これらを理解し、ヴィパッサナー瞑想を通じて、心の奥にあるサンカーラが実際に消滅していくのを観察し、ドゥッカ(苦)の『智慧』を育むことです。

ブッダは、自分自身の内側、心の奥深くを探索し、ドゥッカ(苦)に関する4つの聖なる真理を悟りました。

わたしたちも、4つの真実を観察を通じて、次の「4つの真理」を悟ることです。

① ドゥッカ苦)についての真理

誕生は苦である。
老いは苦である。
病は苦である。
死は苦である。
心地のよくないものと関わることは苦である。
心地よいものから離れることは苦である。
欲するものが得られないことは苦である。
すなわち、5つの集合体への執着は苦である

ドゥッカとは、“思い通りにならないこと“の意味です。
思い通りにならないこと、不満足なことを言います。

この5つの集合体とは、からだというプロセス、それに4つの心のプロセス(意識・認識・感覚・反応)、つまりこの5つのプロセス(過程・現象)のことです。
5つの集合体への執着は苦であることを悟ることです。

② ドゥッカ苦)の原因についての真理

ドゥッカ苦)が生まれる原因は、執着である。
・感覚的な快楽への執着
・「わたし」「わたしのもの」への執着
・自分の意見や信念に関する執着
・儀式や儀礼への執着

「わたし」への執着とは、自分、自我、“これが私だ”と思っている自分のイメージに対する執着です。私のアイデンティティ、プライドのようものです。

また、「わたし」への執着は、「わたし」だけでにとどまらず、「わたしのもの」にも及びます。

私たちの心の奥には、妄執があります。
ある特定の考えに囚われて、執着してしまいます。
これをタンハー(Taṇhā、渇き・渇望・渇愛・貪欲)と言います。
タンハーとは、のどの渇いた人が水を求めるような強い欲望、渇望のことです。
私たちは、もっともっとと渇望し、際限がありません。

すなわち、ドゥッカの原因は執着であること、すなわちサンカーラであることを悟ることです。

③ ドゥッカ苦)の消滅に関する真理

ドゥッカ苦)は消滅させることが可能である。
執着のない瞬間は、苦しみから解放された瞬間である。

すなわち、ドゥッカは滅することができ、それを体験することです。

反応しない、新しいサンカーラをつくらない、心の奥にあるサンカーラを滅することでドゥッカを消滅させることができることを悟ることです。

④ ドゥッカ苦)を消滅に導く道に関する真理

ドゥッカ苦)を消滅させるための道『8つの聖なる道』
・正しい言葉
・正しい行為
・正しい生活
正しい努力
・正しい気づき
・正しい精神集中
・正しい思考
・正しい理解

ドゥッカを消滅させるために、ブッダは相互に関連する8つの事柄を修行するように説きました。
これは「八つの聖なる道」と呼ばれています。

このうち、正しい努力、正しい気づき、正しい精神集中の3つに関しては、アーナーパーナ・サティ(呼吸による気づき)とヴィパッサナー瞑想で説明しています。

正しい思考、正しい理解、この2つに関してが、今回からの説明になります。

「八つの聖なる道」全体に関しては、次回以降でご説明したいと思います。

5.アナッター(無我)

「わたし」「わたし自身」「わたしのもの」と思い込んでる、このからだ、この心、心の内なるものを、分解し、分割し、溶解していくことで、アナッタ(無我)を探求していきます。

アナッター(無我)とは、“無私、無我、実体がないこと、実質がないこと”の意味です。
「わたし」「わたしのもの」と思い込んでいるものは存在しないということを悟ることです。

アニッチャ(無常)とドゥッカ(苦)と一緒に関連して、探求していきます。

ドゥッカ(苦)の真理にもありましたように、「わたし」というものは、からだというプロセス、それに4つの心のプロセス(意識・認識・感覚・反応)、つまりこの5つのプロセス(過程・現象)である5つの集合体で成り立っていて、わたしはこの5つの集合体に執着しています。

まずは、「わたし」という「このからだ」の真実を観察してみましょう。

からだという肉体の表面を観察していくと、5つの感覚器官である、目、耳、鼻、口(舌)、皮膚、そして頭や手足など。自分で動かしたり、感じたり、コントロールすることができるものであり、私のものと実感しています。
しかし、からだの内側を観察していくと、筋肉、臓器、骨、脳、体液など、さまざまなもので構成された集合体であり、自分の意思ではコントロールできません。
からだをもっと、分解し、分割していくと、一つの細胞から分裂してできた細胞の集まりであり、細胞の数は30兆個とも60兆個ともいわれています。

この細胞のほとんどは、3ヵ月ぐらいで新しい細胞に入れ替わっています。
3か月前の私と今の私は同じ細胞ではないんですね。
この体を構成する細胞もアニッチャ(無常)です。

この細胞も細胞膜で内と外の環境を分け、細胞の中は核である遺伝子やミトコンドリア、リボソーム、小胞体、ゴルジ体など、さまざまなもので構成された集合体です。

それらは、水、タンパク質、核酸、炭水化物、脂質などの物質で構成されています。

これらの物質は、さまざまな分子で構成され、分子は原子の集合体であり、原子は素粒子の集合体であり、素粒子は波動の集合体になります。

これらは、ほんの一瞬で生成されては崩壊しています。生成消滅を繰り返しているのです。生じては消える、単なる波動なのです。

ブッダは物質界で最も小さな微小の粒子をカラーパと呼んでいます。
このカラーパは8つの自然要素からなる集合体であり、カラーパの生存期間はほんの一瞬で、人間がまばたきをする間に、一兆ものカラーパが生存を繰り返し、常に変化し流動する状態にあるそうです。

“これは単なるからだである”、“カラーパが生まれ消え去っているその塊である”、どこを探しても、「わたしのもの」、「わたしのものである」というものは見つけることができないということを理解します。

「このからだ」というものの実態、それが常に生まれ消え去る泡の塊のようなもの、波の塊のようなものである微小の粒子の生まれ消え去さっていく集まりにすぎないという真実を理解します。

それと同時に、「わたし」「わたし自身」という「この心の内なるもの」の真実を観察していきます。
心の内なるものは、4つの心のプロセス(意識・認識・感覚・反応)です。

4つの心のプロセスは、無意識のうちに働いています。

ヴィパッサナー瞑想で感覚を観察していくと、だんだんと普段は潜在意識下で生じている感覚、普段感じていない感覚、普段感じられない微細な感覚を感じられるようになってきます。

荒い感覚がなくなり、とても静かになり、肌の上や観察しているエリアがゾクゾクとするような、とても微細な振動している感覚に気づくことがあります。

やがて、からだにおけるもっとも微細な本質、心におけるもっとも微細な本質に達します。

心と心の中身をつくっているものは波動であると理解します。

「わたし」「わたしのもの」「わたし自身」というものは何一つないということを理解します。

あるのは、ただ心と物質の現象、心と物質の相互作用だということです。
それが休みなく起こっているのです。
一瞬一瞬、休みなく流れ続けるプロセスにすぎないのです。

心が物質に影響を与え、物質が心に影響を与えているのです。

これを悟るとき、「わたしの」「わたしのもの」という執着は自然に消滅していきます。
自分に渇望することもなければ、執着することもない。このからだの真実を悟ることです。

ヴィパッサナー瞑想の実践を重ねて、アニッチャ(無常)とドゥッカ(苦)を悟り、からだと心のもっとも微細な本質に達すると、完全なる溶解、からだ全体が溶解する段階(バンガ)に達するそうです。

すると、体中に非常に細やかな振動だけを感じるようになります。
生成と崩壊の世界を超越する、心や体を超えた何かを体験します。
何かとは、何も生じず、何も消滅しない、筆舌に尽くしがたいもの。

そこには、「わたし」、「わたしのもの」、「ヒトと認識するもの」は何も存在せず、6つの感覚器官は停止します。

それを一瞬でもよいので体験しなければなりません。

ただ、私はこれをまだ体験していませんので、きちんと説明できません。
ヴィパッサナー瞑想して9年目ですが、やっと最近この境地の片鱗を感じる程度です。

この片鱗を感じるようになると、1時間のヴィパッサナー瞑想もあっという間に終わるようになり、アニッチャ(無常)・ドゥッカ(苦)・アナッター(無我)の真実の探求に集中できるようになりました。

私は、4つの真実の観察を通じて、3つの性質の真理を悟ることが『ブッダのメソッド』の要だと思っています。

智慧を育む

今回はヴィパッサナー瞑想を通じて、『智慧(パンニャー)』を育む、からだと心の3つの性質の真理である「アニッチャ(無常)」「ドゥッカ(苦)」「アナッター(無我)」に関して、説明いたしました。

次回は、苦を消滅させるための道『8つの聖なる道』とさらに「アニッチャ(無常)」「ドゥッカ(苦)」「アナッター(無我)」について説明したいと思います。


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