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しんちゃんって何者?

noteで発信をし始めてもうすぐ2年になる。

これまで書いた記事は約500記事となった。

今更ではあるが自己紹介記事を
書こうと思う。

私が自己紹介記事を書こうと思った理由は
下記のリンクの記事に書いたが、

私たちは自分のことを理解しているようで
実は一番理解していないものである。

そして、自分自身を知るためには
自己紹介を発信することが非常に効果的だと思い
自己紹介記事を書くことにした。

少々長めの記事になるが
最後までお付き合いいただけると嬉しい。

1.しんちゃんの名前の由来

自己紹介で最初に話すことと言えば
やはり名前についてであろう。

私のアカウント名は”しんちゃん”であるが
実は私の子供のころからのあだ名である。

名前が”しんや”なので子供のころから
こう呼ばれていたのだが、
普通ならもっと他のあだ名もあって
よさそうなものである。

しかし、私には”しんちゃん”と呼ばれ続ける
一つの大きな理由がある。

それは私が一卵性双生児であることである。

ご存知のようにいわゆる”双子”には
一卵性と二卵性があり、
一卵性は1つの受精卵から分裂したもので
生まれた子供の遺伝情報は38%が全く同一との
研究結果が出ているほど遺伝情報が似ている。

それゆえに子供の頃の私たちは外観が
非常に似ていた。

結婚式の時に子供の頃の写真をスライドショーに
しようと実家に置かれている写真を
パラパラと探したが、
自分ではどちらが自分かが判別できないので
母に私がどちらかをを聞いたほどである。

双子なので当然同じ学校に通うわけだが
小中学校はずっとどちらかを区別するため
苗字ではなく下の名前で呼ばれることが
多くなる。

なので私はずっと”しんちゃん”と
呼ばれ続けたのだ。

少し余談ではあるが
私たちは高校まで同じ学校に通ったので、
大学生になって初めて双子の呪縛から
解放された。
その時には嬉しさのあまり
自ら苗字からとったあだ名で
自分のことを呼んでほしいと同じ学科の人に
話していた記憶が鮮明に残っている。

そうしてせっかく大学生の頃に
自分のあだ名を変えることに成功したが
社会人になり友人との交流が減るにつれて
不思議と自分のあだ名は
子供の頃から親しみのある”しんちゃん”に
落ち着いていった。

ちなみに妻は私のことをずっと
”しんちゃん”と呼ぶのでその影響かもしれない。

少し長くなったがこれが私の
アカウント名の由来である。

2.しんちゃんの生い立ち

自己紹介で名前の次に紹介することと言えば
自分が何者であるかということであろう。
しかし、いきなり私が何をしているかを
紹介したとしても、
私が何をもとに現状の自分を選んだのかが
分かりにくいと思うので、
まずは私の生い立ちから今に至るまでを
ご紹介しようと思う。

私はこの記事を書いている時点で
30代後半であり、いわゆるアラフォーである。

そんな私は京都に生まれ育った。

先ほど名前の由来で書いたように
小中学校の頃は双子で外観が似ているため
よく「どっち?」と聞かれることがあった。
小学校5年生ぐらいの頃だと思うが
私には好きな子がいた。
次の授業が家庭科か何かで
教室を移動する必要があったのだが
ちょうど休み時間を挟んでの移動だったので
私は早めにいって教室の前で待っていた。

すると私の意中の子がやってきたのだ。
私からすればその子と二人で待ちながら
話をすることができる千載一遇のチャンスである。

ドギマギしながら話そうかと思ってると、
「しんちゃん?それとも〇ちゃん?どっち?」
とその子が私に聞いたのである。

彼女からしてみれば仮に待っているのが
私でなかったとすれば次の授業で行く場所を
間違えていることになるので
純粋な確認のつもりで聞いたのであろうが
私にとってはかなりショックなエピソードであった。

直接聞いたことはないが、
私の相方にも区別ができないと言われて
ショックを受けたエピソードが幾つもあると思う。

それゆえに私たちは思春期に差し掛かると
少しずつ違うことを選ぶようになってきた。

小学校のスポーツ教室では彼がサッカーで
私はバスケを選んだし、
中学校の部活では彼がラグビーで
私は剣道を選んだ。

このようにお互い違うものを選ぶことで
少しずつ付き合う友達が変わり
一つのセットとして扱われることが
減ってきたのだ。

この傾向はスポーツだけではなく
学習のほうにも影響を与えた。

私の相方は屋外のスポーツを選び
常に日焼けしているいわゆるスポーツ少年。
私は屋内でするスポーツをしていて
イメージ的にはインドア系の少年。

このイメージを自分たちが持っていたせいか
今となってはわからないが、
私は相方のスポーツのイメージに対するように
勉強をするようになり、
私は知らぬ間に勉強が得意になっていた。

今となっては自慢のような話になるが
私はいわゆる塾には通ったことが一度もない。
学習系であれば唯一公文式はしていたが
それ以外には全く塾に通わずに
そこそこの学歴を得られたことは
子供の頃の勉強習慣が活きたのだと思う。

こうして私たち二人の生き方が
少しずつ変わってきた中学時代を終えて
高校に進学することになったのだが
なぜか再び同じ学校を選んでしまったのだ。

理由はシンプル、家から近いからである。

歩いて10分以内に着く距離だったので
通学のストレスはないし、
その学校には進学コースがあったので
私は進学コースに選んだのだ。

さすがに高校時代になると双子であることで
比べられる経験は少なくなった。

ある意味この頃から私たちは
お互い違うことをしなくてもいいと
思えるようになり、
音楽などでは共通の趣味を持つようにもなったのだ。

比べられるからという基準ではなく
自分がどうしたいのかを考えて
判断できるようになったのことは
私の進路にも影響を与えた。

私は中学生ぐらいから理科が非常に好きで
高校時代も化学の授業は暗記が多い中でも
全く苦にならなかった。

なので私は理系の大学に進学し
化学を学ぶことを選んだ。
シンプルに自分がしたいと思う選択肢を
私は選んだのだ。

一方私の相方は大学進学はせずに
専門学校に通い始めた。

本当の意味で私たちはここから
比較されない別々の道を歩き始めたのだ。

そうして大学に進学した私であるが、
大学に行くとこれまで出会った事のないような
色んな地方からの人に出会い、
そして色んな興味を持つ人たちが
それぞれに自分の好きなことを追求している姿が
非常に面白いと感じた。

これまで狭い世界の中で生きていたのが
急に大きな世界に放りこまれたような感覚であり、
私はがむしゃらに泳ぎまわった。

もちろん自分がしたくて選んだ道なので
勉強は全力で取り組んだし、
そこそこの成績は下回らないようにしたが、
アルバイトや遊びも全力であった。

京都の町に住んだことがある人なら
ご存知だと思うが、
京都は一見フラットなようで
勾配がある街なのだ。

私が通っていた大学は京都市の北、
私の家は京都市の南。

普通なら地下鉄で通学するが
地下鉄の定期代は学生には非常に苦しい。

なので私は当時片道15kmの道を
自転車で通学していた。
しかも勾配のある京都市内を
朝から登り続けなくてはならないので
学校に着くころには寒い冬でも
十分に汗をかくほどであった。

しかし、そんな通学をしながらも
夜中までアルバイトをしたり、
友達とカラオケでオールしたり
今から思えば驚異的な体力であるが
当時はそれが当たり前だと思っていた。

そんな全力な大学時代を過ごしていたが
たちまち2回生の終わりごろから
進路を考えるようになった。

私は理系で化学を専攻していたので
8割ぐらいの友人がそのまま大学院に
進学すると話していたが、
私はそのまま研究を続けるよりも
早く社会にでて自分を試してみたいと思い
大学院進学ではなく就職する道を選んだ。

これまでアルバイトは数々してきたが
学校の勉強以外で本を読む経験は
殆どなかったので
就職活動をし始めるときに何を基準に
選べばいいのかわからなかった。

しかし、私はずっと化学が好きだし
大学でも4年間学んだので、
その知識を活かして社会に貢献できる形を
考えた結果、実家からは遠く離れた場所にある
繊維関係の商品のメーカーに就職を決めた。

他にも色んな選択肢があったが
面接や説明会を通して感じたその会社の印象が
私の中で一番シックリきたのだ。

そうして私は人生初の京都以外の場所で
一人暮らしをしながら、
社会人生活を送ることになった。

3.しんちゃんって何してる人?

非常に長い生い立ちの話であったが
これで今の私が何をしているのかの
背景は何となくご理解頂けたと思う。

では社会人になってから私は何をしたかというと
最初はのキャリアは生産技術であった。

製造業に従事したことのある方なら
分かると思うが、案外ピンときにくいのが
生産技術の仕事である。

この仕事は何をするかというと
いかに低コストで安定して生産するかを
追求する仕事である。

大量にものを作る時には一定の不良品が
発生してしまうものである。
その発生率の低減を行ったり、
一定の量の商品を少ない人員で効率よく
生産するための方法を検討したりするのが
生産技術の仕事である。

工場のオペレーションというと
何となくスイッチ一つ押せば動くような
イメージを持ちがちであるが、
現実にはモノづくりの現場には
非常に多くの人がかかわっており、
アナログな作業が色んな現場で
いまだにたくさん残っている。

商品は企業にとっての顔であるが
その商品を安定的に安く作れるからこそ
企業は利益を出すことができる。

いくらいい商品を出しても
市場から頭が2個ぐらい出た値段なら
だれも買ってくれなくなるのは
言うまでもない。

それをしっかりと実現するのが
まさに生産技術の仕事なのである。

一見すると難しい仕事のように思えるが
実際にやってみると非常に面白かった。

ほんのすこしレイアウトを変えるだけで
作業性が大きく変わり数字に反映されたり
作業者の方ら「楽になった」と
言われた時には非常にやりがいも感じた。

そんな仕事を楽しんでいたわけだが
入社2年目が終わりかけた頃に
私にとって大きなことが起こった。

私が就職した会社は日本国内に
1か所だけ工場を保有しており
入社して2年は国内の工場で仕事をしていたが
ある時私に白羽の矢が刺さり
マレーシアの工場に赴任することが決まったのだ。

大卒とは言え、まだ25歳ぐらいである。
海外といっても製造業の工場がある立地なので
日本食が簡単に食べられるような店もなければ
娯楽施設もない。
そんな場所に3年間も赴任することは
私にとって大きな決断であった。

しかし、私は何か不思議な縁のようなものを感じて
海外赴任を受けることにした。

ちなみに私は当時英語は全く自身がなかったし
海外にも行ったことがない状態であった。

当時大学院生だった友人たちにこの話をすると
皆が口をあんぐり開けて驚いていたのが
いまだに記憶に残っている。

そうしてマレーシアでの生活に入った私であるが
仕事の面では国内の工場の10倍以上もある
規模の設備に圧倒されるとともに、
やるべき仕事の多さに驚いた。

また、初めて見る海外の景色や習慣、
そして食べ物は私にとってどれも魅力的で
可能な限り色んなものを体験しようと
週末にはローカルスタッフとともに
食事やイベントに出かけたりもした。

今の私が比較的何か新しいことをするのに
抵抗を感じにくいのは
この時の経験が大きく影響していると思う。

もちろん仕事は決して楽ではなく
辛いことも山ほど経験したが、
今からしてみればこのマレーシアでの
3年間の経験は非常に大きなものであった。

マレーシアでの生活で得たものについては
自己紹介の趣旨から少し外れるが
学びの意味では面白いものもあるので
ぜひ別の記事でご紹介しようと思う。

そして、日本に帰ってきた私は
生産技術から品質管理に移動した。

品質管理の仕事は名前の通りで
製造業なら生産される商品の品質を
コントロールし、さらに出荷された製品の
保証を行う部署である。

生産技術の仕事は製造業の中で
攻めだとすれば、品質管理の仕事は
明らかに守りである。

配属された当初は何となく品質管理に対して
ネガティブなイメージを持っていた
私であったが、
実際に仕事をしてみるとその見え方は
大きく変わった。

品質管理の仕事は一見守りだが
やりようによっては幾らでも攻めに
転じることができたからである。

工場から日々上がってくるデータから
どのような改善をするべきかを
品質管理の目線でアドバイスしたり
場合によっては実際に海外工場に
出向いて品質改善まで行ったりしたが、
これらの経験は非常に楽しいものであった。

そんな仕事を楽しんでいる時に
私は今の妻と出会い結婚をした。

もともと結婚願望が強かったわけではないが
結婚して誰かと家庭を築いていくことは
非常にエキサイティングなことのように
当時の私には思えていた。

そんな時に妻と出会い、私にも明確な
結婚願望が出てきたので結婚することを
決意したのだ。

結婚してほどなくして長男が生まれ、
私は一人の人だけでなく夫であり父にもなった。

私は結婚しても変わらないタイプだと
自分で思っていたが、
実際に結婚してみて、親になってみると
みるみる自分が変わっていくのを感じた。

何より大きな変化は私の中での
仕事への向き合い方である。

これまでは仕事こそ人生の全てのように
考えていたし、仕事をしっかりこなして
評価を得ることに何よりも重きを置いていた。

しかし、結婚して家族と時間を一緒に過ごすと
その時間の重みが明らかに自分のなかで
大きくなっていることに気づいたのだ。

このことに気づいた当初は正直戸惑いもあった。

それまで正義と思っていたことが
覆ったような気持ちであったからである。

そんな頃、私は本を積極的に読むようになった。

これまで社会人として環境から学ぶことに
全力を費やしてきたけれど、
社会が求めるものと自分のキャリアに
少し乖離があると感じたからである。

実際本を読んで学び始めたころは
目からうろこが落ちる経験の連続であった。

そうして学び、それを実践することを
繰り返していく中で私の中で一つの疑問が
出てくるようになった。

「僕はこのままの働き方をしたいのか」

先ほども書いたが私が働いていた会社は
国内に1つの工場があるのみで
殆どの製品は海外の大規模な工場で
製造を行っていた。

なので、その会社でキャリアを積み重ねることは
海外赴任からは切っても切り離せないのだ。

私は決して海外に行きたくないわけではないし
海外で仕事をすることに魅力は感じていたが
自分の中での優先順位が
家族で一緒に過ごすことが最上位である中で
この選択肢は自分にとって
ベストではないと感じるようになったのだ。

そんな風に考えていた私の心を見透かしたかのように
その頃私に会社から海外赴任の内示が出たのだ。

しかも今度は5年間。

家族と一緒に行けるような都会ではないので
否応なく単身赴任となる。

私なりに非常に悩ましい選択肢となったが
私はこの赴任の内示を断ることを決断した。

そして、それと同時に転職することを決断した。

そうして結果として今の仕事に就くことになった。

そんな今の私の仕事は繊維関係の商品の
商品開発職である。

これまでのキャリアで生産技術と品質管理をして
モノづくりのノウハウを持った中で
私の中でどうしてもやりたかったのが
この商品開発であった。

転職市場で商品開発の仕事が出ることは
比較的少ないものであるし、
当然ながら商品開発の仕事には既に経験がある人が
優先されるのだが、
偶然なことに私が転職を始めたころに
今の会社の商品開発職の応募があり、
今の上司が私の前職をよく知っている人で
あったことから、
縁あって今の会社の商品開発職に就くことなった。

転職をして新たな商品やモノづくりの方法を覚えて
さらに新たな人間関係を構築することに
最初は若干の辛さを感じた時期もあったが、
実際今の仕事に就くようになって
非常にやりがいを感じている。

顧客が望むものをモノという形で
表現をして、それを市場に送り出す。

やること自体はすごくシンプルであるが
それを実現するためには無数の
試行錯誤が裏にあるものである。

気が遠くなるような実験を繰り返して
手に入れた最適解を商品の設計に
織りこんで、それを顧客に使ってもらうことは
商品開発の仕事の醍醐味でもある。

新たな商品を開発することで
新たな分野を学ばなくてはならないし
これまでの常識や知識が通用しないことは
山ほどある。

しかし、それも苦にならないのは
やはり商品を通して顧客に貢献できることが
楽しいしやりがいであるからである。

そんな仕事をいまの私はしている。

4.なぜ発信しようと思ったのか

ここまで読んで下さった方からすれば
仕事や家庭に不満がないのに
わざわざ仕事以外のアクティビティまで
手を出して発信することに疑問を
持つ方もいるかもしれない。

しかし、私が今のようにnote、Twitter、
スタンドエフエムで発信をしようと
思ったのには理由がある。

それは自分が学ぶことによって
大きく人生が変わった経験を
いまモヤモヤしている人に届けたいと
思うようになったからである。

私は色々な書籍を読んで多くの影響を受けたが
そんな書籍を自分が出して
悩む人にきっかけを与えたいと考えている。

人生を悩ましいものにするか
最高のものにするかは全て
捉え方次第なのである。

そしてその捉え方は学校では誰も
教えてはくれない。

私たちは自分から学ぶからこそ
自分なりの人生の捉え方を変えていくことが
できるのである。

私がTwitterで”学び”をテーマにして
発信しているのはまさにそれが理由である。

私は仕事で商品開発をして
顧客が求める商品を形に変えているが
同時に自分が望む人生も形に変えていきたい。

そして、その方法を色んな人に伝えたい。

ある意味私のテーマは学びを通した人生開発である。

ここまで非常に長い記事になったが
しんちゃんという発信者について
少しでも伝わっていれば嬉しく思う。

今後も自己紹介の記事は定期的に書こうと思うので
ぜひお付き合いいただけると嬉しい。








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