見出し画像

ことばが存在しない世界。

あまりにもふつうにことばを使っているものだから、
もはや、ぼくは、ことばが
存在しない世界のことを考えられないな。
けれども、おそらく
ことばが存在してからの年月よりも、
ことばが存在する以前の年月のほうが
長かった、とも思うから、いわば
ことばが存在してなかった時代の世界のほうが、
より、ふつうだった、と言えるやもしらないか。

ことばについて考えるときにはね、ことばを
「話すことば」と「書くことば」とに分けて、
考えたほうがよいのかもしれないなあ。
つまり、
「話すことば」とは「音声」であり、
「書くことば」とは「文字」である、
と思うけれど、歴史的には前者の
「話すことば(音声)」のほうが圧倒的に長いと思う。
くわしくはぞんじなかったので、
文字の発明についてネット検索してみると、
その時期は諸説あるみたいではあるけど、
今から5000年ぐらいまえのころらしい。

また、「識字率」という概念もございますが、
それはつまり、おそらく
「話すことば」つまり、この場合は
「母語」になると思うけれど、母語は
幼少時より両親等の周囲に居る人たちによって
話すことができるようになるのだとしても、
文字のほうは、学校等の教育によって学ばない限り
書けるようにはなれない。
ぼく自身のことを鑑みても、ぼくはとくに
子どものころ、字をうまく書けなかったし
(今でもそうだけれども…)、
漢字の書き取りもいやだったなあ。
つまりは、今でこそ、ふつうに
文字は書いているともしても、
文字を書く、というのは人間にとって
とっても困難なことなのかもしれない。

もはや、ぼくは、ことばが
存在しない世界のことを考えられない、
と、このうえのところで申しあげましたが、
このことについてさらに申しますと、ぼくは
「話すことば」は存在しているが、
「文字」はまだ存在していなかった、
という時代のことも想像できないなあ。

このごろすこしずつ読んでいる、魚豊さんの漫画作品
『チ。—地球の運動について—』はね、
今のところ「第4集」まで読みまして。
以下、物語のねたばれになりますが、
15世紀のヨーロッパ、禁じられた地動説の考えを
研究する人間たちについて描かれているこの作品において、
ある登場人物の青年が、
文字を学びたい、とのように語る場面があって。
つまり、彼はことばを話すことはできるが、
文字を読んだり書いたりすることはできなかった。
彼は、彼の周りで起きる出来事によって
文字を学びたいと切望するようになった。
というこのシーンがとくに印象的だったなあー。

「話すことば」と「文字」を比べて考えるとすると、
このとき、ぼくは、なんだか
「計算」のことをイメージするのよね。
つまりはさ、
「話すことば」のほうは「暗算」で、
「文字」のほうは「筆算」だ。

暗算とは、得意な人はおられるともぞんじますが
ぼくはぜんぜんできなくって、でも、
筆算であれば、紙とペンさえあれば
あとは丁寧に計算作業を行えば、
その答えはいずれ出てくるだろう。

頭の中では、そのような
筆算のことだけでなくて、
いろいろなことを一度に置いておくことができない。
せいぜい、数個の要素だけだと思う。
それがね、文字や数字を使うことによって
もっと複雑な物事を考えられる。
なおかつ、それらを書き留めておけるし、
そのことを、手記や文献によって
場所及び時間を越えて伝えられることもできる。

そんなふうに考えてみるとね、
これまで当たりまえのように使っていた
「文字」というものが、あらためて、
きらきら輝き出す、というか、さらにはさ、
「ことば」が、人類に対して
どんな変化をもたらしたのか?!
ってゆうのも想像したくなってくるんだなあ〜。

令和6年9月28日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?