答えようとする力と昔考えたことがあるから。
「考える」とは何か?
ということについては、
折に触れて考えている。
「考える」という行為とは、やっぱり
いろいろな性質があるんだとは思うけれども、
ぼくとしては、いまだ、それが
どういうことなのか? ってえのは、
きちんとはわかれていない。
そして、このごろもまた
「考える」とは何か?
のことを考えながら、ふと、思い出していたのはね、
以前、WEBサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」にて、
岩田聡さんと糸井重里さんとの対談にて、
岩田さんがお話しされていたことなのでした。
その対談とは、平成19年9月連載されておりました
『任天堂の岩田社長が遊びに来たので、
みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ。』
というコンテンツなのですが、以下、
対談の「第10回」より引用を申します〜。
このようにして、糸井さんが急に
質問したことに対して、
岩田さんはすぐ、かつ、一気に答えられた。
このことについて、岩田さんは
【なぜ、すぐに答えられたかというと、
昔考えたことがあるからなんですよ、きっと。】
と、お話しなされている。
なんだか、岩田さんと
ぼく自身とを並べて考えることは、
あまりにもおこがましいのですが、
ぼくもね、このような、つまり、
昔、考えたことがあるから
すぐに一気に答えることができる、
ってゆうのはわかる気がするのよね。
逆を言えば、考えたことがないことは、
すぐに一気には答えられない。
対談のつづきでは、、
‥‥とお話しされているけれども、しかし、ぼくの場合では
考えたことがないことを説明する際には、
糸井さんの言われるような、岩田さんのように
「ちょっと間ができる」「ちょっと止まる」
というふうではおさまらず、
しどろもどろで、舌足らずで、論理も
全く明瞭で無いような言い方でしか言えないんだなあ。
そしてまた、このあとのところで
岩田さんがおっしゃっている
【はじめての質問をされたときは、
「自分がここで答えることは、
自分が今までやってきたすべてのことと
一貫してるかどうか?」
ということを考える。】
というのもわかる気がする。
つまりはさ、たとえば
ぼくは日々このブログを記しているですが、
そんなブログで書くことだっても、
毎回のそれぞれの文章でも
これまでじぶんが記してきたことがらと、
なるべく齟齬が無いようにして
書きたいなあ、というのは考えている。
つまり、じぶん自身の考えることに
一貫させたい、と申しますか、もしくは
うそにならないように、と申しますか。
なので、ぼくのブログの場合では、
そういうことを思いながら記している
ふしがあるので、毎回、毎文、
じぶん自身に確認をしながら書く的なので、
時間もかかってしまうし、そして
どちらかと言えば、ブログでは
考え途中のことを書きたい感じなので、
言ったり来たりの冗長でわかりにくい文章に
なっているとも思えるけど、
それは、ブログを書くことで
わからないことをわかるようになりたい、
というふうなのだとぼくとしては思っているの。
岩田さんは、さらに
【自分が自信を持って
「これが正しいと思う」ということがあっても、
いろんな角度から考えてみないと言えないんです。】
とおっしゃっているのですが、ぼくは
そこまでは出来ていないように思える。
「これが正しいと思う」ということがあっても、
いろんな角度から考えてみないと言えない、
って、素敵だよなあ。
つまり、なにかを言うためには、
いろんな角度から考えてみて、
仮説を立てて、検証して、だめならば
別の仮説も立ててさらに検証して、
これだったらおっけー!
となってからでないと言えない。
これこそが真の「考える」つまり
「シン・考える」なのだとも思うのよね。
ぼくも、でも、岩田さんには
遠く遠く遠く及ばないとしても、
そのように考えられたら、
って、ぞんじあげます。
令和6年4月4日
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