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中心で支えられているお皿の上で。

前々回前回のブログでは、河合隼雄先生による
スクールカウンセラーについての講演がまとめられた
『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』という書籍での
「第四回学校臨床心理士全国研修会講演(1999年)」
の講演の中で、河合先生が、日本文化の特徴として
「一蓮托生」ということばを挙げられていたことを書きまして。

ともすれば、「一蓮托生」のごとく、
蓮の上に載りながら、そこに、
変な人は来てくれるな。と、なってしまう。

‥‥という、河合先生のご説明を読みながら、
ぼくが思っていたのはさ、そういえば、
これは以前から考えていたんですが、たとえば、
ぼくらは、ひとりひとり、
一本の棒の上に、お皿が
その中央で支えられている、的な、
バランスを取るおもちゃ「やじろべー」の
お皿バージョンみたいなところで過ごしている。
なのだとして、日々、
このお皿が傾かないように、お皿の中央に立ち、
バランスを取っている。

ここに、だれかが入ってきそうになれば、
これまでせっかく取ってきたバランスが
崩れてしまうから、その人に対して、
「入ってこないで!」と言い、そしてまた、
お皿の中心に立ち、その場所でじっとしながら、
バランスを取る。
というような状態のことを、
「自分中心」と言うんだと思ったのよね。

そして、もしも、そのお皿の上へと、
だれかが入ってきたならば、
なにかが置かれたならば、
バランスが変わってきてしまうから、ならば、この
入ってきた人や置かれた物の重さや位置を考えて、
じぶん自身が動きながら、また、
新たなバランスを取ればよい。

そうすることによって、じぶんの中に、
新たな物事が入ってくる。

逆に、お皿の中央から動かない、というような
「自分中心」の状態では、
だれも、なにも、入ってこられない。

みたいな、イメージでしょうか。

いや、でも、ぼくだってもさ、
どちらかと言ってしまえば、その
お皿の中央からあんまり動きたがらないような
「自分中心」のタチでもあるから、
だからこそ、たとえば、なにかがあれば、
じぶんのほうから動きながら、
新しいバランスを取ろうとする、ってゆうのを、
意識できたらと思っているのよね。

このことが、河合隼雄先生のおっしゃる
「一蓮托生」のことと
関連しているどうかはわからないけど、
なんだか、そんなことを、
あらためて考えておりました〜。

令和3年9月10日


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