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蓮の上に。

さくじつのブログでは、河合隼雄先生による
スクールカウンセラーについての講演がまとめられた
書籍『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』にて、
日本文化の特徴として「一蓮托生」ということばが
挙げられていたことを書いたのですが。

蓮の上にみんなで乗りながら、
どんな結果になろうとも
行動や運命を共にする、というような、
「一蓮托生」の文化なのだとすれば、そこでは、
蓮の上に余計な人は乗ってくるな!
というふうにも、なってしまう。

このことを、河合先生のおっしゃるには、、

 あるカトリックの結婚式に行ったときに、神父さんが説教で「夫婦は一蓮托生です」と言われたので、びっくりしたことがあります。「一蓮托生」というのは仏教で使われる用語ですからね。キリストが蓮の上に載っているのかと思ってびっくりしたわけです。これは、カトリックの神父であっても、日本人には知らぬ間にそういうことがしみこんでいるということなのです。だから、学校でいったん自分が担任になったら、これはもうこのクラスと自分は一蓮托生だと思う。ですから、「蓮の上に、変なのは来てくれるな。カウンセラーなど来るな」となる。これが日本文化です。
(村山正治さん・滝口俊子さん編『河合隼雄のスクールカウンセリング講演録』62頁、「第四回学校臨床心理士全国研修会講演(1999年)」より引用です。)

たとえば、学校のクラスに、
スクールカウンセラーが入ってくる場合には、
クラスの担任の先生も「一蓮托生」として、
この場所へ入ってくるな。となる。そして、、

 それからもっと大事なことは、われわれカウンセラーも日本人だということです。なんだかんだ言っても、いざとなると、「顔が立たない」とか「一蓮托生だ」と思ったりします。だから、われわれ自身もそうだということを忘れてはならないのです。
(同著、64頁より。)

学校の先生の側だけでなく、
カウンセラー自身もまた日本人なのだから、
「一蓮托生」だ、と思ってしまう。

ぼくは、スクールカウンセラーのことは
なにもぞんじないけれども、でも、
なんだかこの感じって、つまりは、
「蓮の上に、変なのは来てくれるな。」というのはさ、
外国の文化も全然知らないけど、日本人とは、
よくも、わるくも、どうしても、じぶんも
そう思われているような場合もあれば、
じぶん自身が思う場合もあるだろうし、
そういうことは起こりうるんだろうなあと感じるの。

このとき、
カウンセラーにとって大事なのは、
「葛藤を保持できる力(葛藤保持力)」と
「大きく全体が見えていること(全体を見渡す才能)」
なのだと、河合先生はおっしゃいます。

うまくは言えないですが、おそらく、
スクールカウンセラーだけでなくて、
あらゆる場面でも、このふたつのことって、
大事なのかもしれない。
ってゆうのも、なんとなく、思いながら、
「葛藤保持力」と「全体を見渡す才能」のこと、
もうすこしじぶんのなかで考えてみたいー。

日本人の文化とは、
「蓮の上」で暮らしている、のだとすれば、
すんごい不安定なところで、たとえば、
すこしでも動いたら
水の中に落ちてしまうようなところで、
過ごしているのかなあ〜。

令和3年9月9日


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