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7パーセントの言語、93パーセントのいろいろ。

人間同士のコミュニケーションにおいて、
そのうちを占める「言語」の割合は
7パーセントである、というのを聞いたことがある。
ネットで検索してみると、それは
「メラビアンの法則」と呼ばれているらしいですが、
7パーセントと聞くと、やっぱり、
とっても少ないように思える。
でも、この法則のことはくわしく存じなくとも、
そうなのかもとも思える、というか。

言語、つまり、ことばって、
無くてはならない大切なものだし、
コミュニケーションにとっても、はたまた、
じぶんの頭の中で考えることにとっても、
重要なものでもあると思うけれども。
かと言って、ことばは
いつでも万能で、かつ、完璧なものでもない。

思考とか、気持ちとか、悩みとか、
そういうことも、すべてがすべて
ことばできちんと表せるとは限らないし。
会話や対話、及び、
指示を出す(受ける)とかにおいてもね、
ことばによって確実に伝わっている、
ということも限らないし。
つまり、誤解もあれば、勘違いもあれば、
むつかしくてわからないこともあるし、
それらを一度訊ねれば、それで即、誰しもが
理解や修正もできるかどうかもわからない。

昨日のブログの中で、ぼくは、たとえば
神社の本殿でお参りをするときには、
二拝二拍手ののちに手を合わせて祈り一拝する、
というのを申しましたが。
この「手を合わせて祈り」をする場面では、
何かのお願いごと、もしくは
初詣ならば昨年の感謝の気持ちを、
心の中でつぶやいたりもするんだけど。
それらもすべて、神社でお祈りをするぼくとしては
「心の中で思うこと」なのだから、つまり、
それを聴き入れてくださる神様も参拝する人々の
「心の中のことば」を見ておられる。

つまりはさ、参拝とはいわば
神様と人間とのコミュニケーションである、
と考えるとすれば、この
「心の中のことば」というのも、
表面的には見えないのだから、言語を介した
「7パーセント」の側のやり取りではなくて、
残りの「93パーセント」のほうの対話である。
さらには、このような祈りのことばにおける
神様からのお返事もまた、おそらく
言語を介したものではないのだから。
(ぼくは、神様よりことばで
 お返事をいただいた経験が無いから、
 そういうふうにしか言えないんだけど。)
ならば、神様はいつも、
お参りでのお祈りを無視なされておられるのか、
それとも、無視なんかされておらず
聴いてもらえていて、なおかつ、
とある願いは叶えていただけているのか?!
でも、なんだか、この後者だと考えるぼくは
どちらかと言えば、無宗教と言うよりかは、
信心深いほうなのやもしらないな。

参拝において、参拝者がみな
じぶん自身の祈りのことばを、
口に出して言う、という作法だったともすれば、
それはそれでけっこうカオスのような気がする。
「絵馬」という制度もあるけど、
それは言うならば、
「口に出して言う言語」と
「文書で記す言語」のちがい、とも言えるかな?

ちょっと飛躍して考えてしまった部分もございますが、
人間と人間とのコミュニケーションにおいてもね、
この法則のことはよく存じないですが、
表面的に口や文書で表されてない事柄だっても、
いろいろ介せ合いながら、人間同士、
やり取りをしているんだろう、
って思うのよね〜。

こころ かなしくて ことばにできない
それが くやしくて ことばにできない
うれしくて うれしくて ことばにできない

らららー らら ららぁー♪

令和5年9月26日

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