見出し画像

権力性と妥当性とクーデター的なこと。

前々回及び前回noteよりひきつづきまして今回も
「人間関係」について考えていることをね、
もうすこしだけ申したいのですが。
「人間関係」と密接に結びついているものと言えば、
ぼくとしては、それはつまり
「権力」だと思うのよね。

上司と部下、社長と社員、先生と生徒、
国家と市民、先輩と後輩、親と子、
などなどの関係性だけでなくって、
ふたり以上集まれば、そこには多かれ少なかれ
「権力」が介在するとも思われる。
つまり、どちらかが強く、かつ、どちらかが弱い、
というような?! たとえば、
友人同士の関係性においても、お互いが権力的に
「支配する・される」というわけじゃあなくとも、
このことはちょっと言いにくい、とか、
このことはちょっと断りにくい、とか、
そういうような状況があれば、それはすなわち
人間同士の「権力性」なのだと思う。

とは言ってみても、「権力」って
わるいことばかりでもない。
つまりはさ、たとえば
会社や国家に関することなどは、
いち社員及びいち市民が考えて判断して決める、
というわけにもゆかない事物がある。
「会社」については社長や会長、及び、
「国家」については三権分立の長、というような人がいて、
そして、要職の人が集まる会議によって決めなければ
決まらないことがある。つまり、
権力が無ければ物事の進まない状況もある。

けれども、そのような権力のもとでも
「すべて」がゆるされるわけでもない。
今で言われる、いわば
「ハラスメント」的なこと、もしくは
子が親へと、また、生徒が先生へと
「反抗する」的なことは、その
権力性に対抗するようなことだと思うし、
さらにはさ、たとえば
「ストライキ」及び「クーデター」というのも、
会社や国家に対する行為なのだとも考えられる。
そして、ときに、権力を持つ者が
入れ替わる場合だってもありうる。
しかし、たとえ、権力を持つ者が
入れ替わったとしても、また、その人は
「すべて」がゆるされるわけじゃあない。

こういうような「権力性」について、
反抗するかどうか、対抗するかどうか、
というのは、その権力が
「妥当」なのかどうか? なのだと思うのよね。
つまり、このうえのところで
「すべてがゆるされるわけでもない」と記したけれど、
ここまではゆるせるが、
ここからはゆるせない、のような
妥当性の境界線があるのでしょう。
そして、その権力が妥当だと思えれば
反抗も、対抗も、しない。
逆に、妥当だと思えなかったとすれば
不満がうずまきながら、あるときには
反抗及び対抗、つまり、
クーデター的なことも起こりうる。

会社や国家だけでなくって、あらゆる
人間関係においても、多かれ少なかれ
このような「権力性」ってあると思うの。

前々回noteの中でね、ぼくは
「耐えられるならば、
 それはそれで良いんだと思うけれど」
とのように申したですが、この
「耐える」というのと、今回申している
「妥当」及び「ゆるせる」というのは、
似ているようでちょっとちがう気もするけど、
どういうふうにちがうかはうまく言えないな。

なにが妥当で、かつ、
なにが妥当でないか? というのもね、人の
考え方や価値観によっても変わってくるだろうし、
はたまた、それは
時代によっても変化するんだろう。
たとえば、あるころから
「ハラスメント」や「コンプライアンス」とのように
よく言われるようになったかのごとく。

「権力の妥当性」って、つまりはさ、
「正義の妥当性」とも言い替えられるやもしらないけど、
そんなような、いわゆる
正しい権力とは何か?!
みたいなことを知りたいなあ〜。

令和6年5月16日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?