表紙10

第46回 媒介

【吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』をひたすら聞きすすめてゆくシリーズ、だい46かいめっ。】

こ、こ、こんにちはー。

前回noteではねぇ、荒れ狂った海へむかって「おまえ、しずまれ!」と言ったら海がしずまった、ていう聖書に描かれた「奇跡」ってぇのは、それは「ペテン」なのか「フィクション」なのか、それとも「もうひとつの考えかた」はありうるだろうか?

その吉本さんのお答えは「ありうる。」とのことで、、、

その「ありうる。」ってこととは何か? って言ったらね。もしもね、もしも、言葉に対するねぇ、言葉に対する全(まった)き、言葉に対する全き信仰ってものをね。それがあるならば、(チャプター09 / 奇跡とは何か_3:12〜)

もしも「言葉に対する全き信仰」というものがあるのなら、

あるいは、もっと言うんですけど。言葉に対する全き信仰とはいわば、聖書の言いかたですれば、それは神に対する全き信仰ってことでしょ。って言うことなんでしょうけどもね。

それは、つまり「神に対する全き信仰」とゆうことで。

言葉に対する全き信仰って言うものがあるならばね、信仰っていうものが、あの、そういうこの両者をね。このふたつをね、全く繋がりそうもないふたつの対象を媒介するならば、つまり、

まったくつながりそうもない両者を「信仰というもの」が媒介(あいだに入って仲だちをすること)するのなら、つまり、

だから、こう。聖書のマルコ伝の言葉で言えば、ここの言葉で言えば、「黙(もだ)せ、鎮(しず)まれ。」って言う、イエスがそう言った「黙せ、鎮まれ。」っていう言葉がね、

イエスの言った「黙せ、鎮まれ。」ということばが、

もし「言葉に対する全き信仰」として、その「信仰」のもとにね、「黙せ、鎮まれ。」っていう言葉が、この両者を媒介するならば。つまり、全く結びつきそうもないふたつの対象を媒介するならば、

まったく結びつきそうもないふたつの対象を「媒介」するのなら、

これはメタファーに成りうる。

これは「メタファー(暗喩)」に成りうる。

って言われる「これ」とは、「奇跡」のことだとは思うけれど。えーと、ちょっとややこしくって。。

つまり、誰にでもわかる、「あなたの目はゾウだ」とか「おまえの目はゾウだ」、「ゾウのようだ」とか「ゾウだ」とかね。そういうのが誰にでもわかるように、あの、

つまり、ことばとして誰にでも分かる「あなたの目はゾウだ。」のように、

「凪(な)げ、鎮まれ。」って言ったら、しずまった。って言うことが、わかるんだよ。っていうことだと思います。つまり、

「黙せ、鎮まれ」や「凪げ、鎮まれ」ということばも、分かる。ということ。つまり、

メタファーとしてわかるんだよ。って言うことだと思います。つまり、あの、それは、それはねぇ。言葉として見られた奇跡ってのは、全部そうだと思います。

聖書のなかに記された「言葉として見られた奇跡」は、ぜんぶ「メタファーとして分かる」ということである、のだと。。。

だから、あの、えーと。先ほど言いました、ライ病の患者の人が来た、と。で、これを治してくれ、って言う。あなたが能力を持つなら治してくれ。って言われて。で、もうおまえは浄(きよ)められた、って言うふうにイエスが言ったら、

ここでの「先ほど言いました」とは、この回でおっしゃったこと。

そして、患者さんがやって来て「治してくれ」と言われて、

そしたら、立ちどころに治った。って言うようなところがあるでしょ。そして、手なよの人をこうちょっと触ったら、そしたら治った。って言うようなところがあるでしょ。

もーすぐ立ちどころに治った。みたいな、

そんなことは、フィクション。いわゆるフィクションって言うのが、あの、現実に由来していなければフィクションとも言えない、って言うふうに言うなら、

そんなのは、フィクション。ってゆうか、現実的で無ければ「フィクションとも言えねぇ!」と言うのならば、

そんなことは、ありうるわけないよ。ってことになるんですけどね。だけど、だったらば、言葉だけのフィクションか? って言うことになるわけですけれど。そういう意味じゃなくてね。

「そんなん、あるわきゃないよ。」もしくは「ことばだけのフィクションか?!」って言うような、そーいう意味じゃあなくって、、、

の、このつづきは次回noteっす。すみません、ここのところぼくにはちょっとむつかしくって。なんと言いますか、わかりたいっ!!!

平成28年7月24日



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