表紙10

第45回 自然

【吉本隆明さんのこうえん『喩としての聖書−マルコ伝』を聴いておりまっっす、だい四十五かいめ〜。】

はろー、では前回noteからのつづきを、、、、

で、僕はべつに、こんなのは奇跡じゃない。と思っているわけです。つまり、そんなことありえないと思っているわけです。それ、絶対に信じてます。絶対に確信を持ってね、そんなことは絶対ないよ。って、(チャプター09 / 奇跡とは何か_2:29〜)

こんなのは、奇跡じゃあない。

「荒れた海、おまえ鎮まれ。」って言ったらね、しずまった。ぜったい、そんなこと誰がやってもダメだよ。というふうに思ってます。

海へ「しずまれ!」と言ったらしずまる。なんて、誰がやったってできるはずがない。

つまり、自然って言うものをね、僕はそういうふうに信じてます。あの、それから。人間、人間も自然だ。自然の一部だ、って言うことを信じてます。だから、僕はそんなこと信じてるわけじゃない。しかし、

「自然」とはそーいうものだから。そしてまた、「人間」も自然のいちぶだから。

しかし、、、

信じてないようなら、それはペテンだ、って言うかね。そうじゃなければ、これは言葉だけのフィクションだ、と見るかね。それ以外に無いのだろうか? って言うふうに考えた場合にね、

「信じてないならこれはペテンだ」と言うのか「これはことばだけのフィクションだ」と見るか。それとも、それ以外の見方は無いか?! と考えたときに、

そうじゃない、もうひとつだけね、考えかたがあるんだよ。ありうるよ、っていうことを言ってるわけです。僕は。

「ペテン」でも「フィクション」でもない、もうひとつの考えかたはありうる。と吉本さんおっしゃいます。

これってば、この講演のさいしょのほうで「思想にとっていちばん大事なのは『信ずること』と『信じないこと』の境界を踏まえていること」と吉本さんおはなしされてたけれど。なんだか、このことと関係していそうー。

そいじゃあこのつづきは次回noteで聴くですっ。よいしゅーまつを!

平成28年7月23日



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