表紙10

第44回 信ずるか信じないか?問題

【吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』を聴く聴くシリーズ、だい44かいめ〜。】

こんにちは。こんにちは。前回noteではよー、聖書で描かれる「荒れ狂う海へ向かって『しずまれ!』と言ったら、海がしずまる。」っていう「奇跡」とはなにか?! についてだったんやけどねー。ほんじつは、このつづきっすわ。

で、これを信ずるか信じないか? って言う問題になるわけなんですよ。すると、(チャプター09 / 奇跡とは何か_1:18〜)

そーいう奇跡を、信ずるのか信じないのか、という問題。

あの、みなさん、半分くらい信ずるのかもしれないし。あやしいな、と思いながらも、仕方が無いから信ずるのかもしれないし。あるいは、心から信ずるひとも居るのかもしれません。しかし、

‥‥と、これまでなんどか申しておりますが、吉本さんがこの講演で語りかける「みなさん」とは、講演会場が「御殿場YMCA東山荘」という場所なので、聴講されるクリスチャンのかたがたを呼んでいるとおもうです。

というみなさんは、どのくらい信ずるのか? それは「半分くらい」か、「あやしいなと思いながら」か、「心から」か。

しかし、あのね。しかし、言葉その通りに信ずることは、信じられる人は、たぶん、そんなに居ないのですよ。

だけれども、そのことばのその通りに信じられるひとは、たぶん、そんなには居ない。たぶん。。。

それで、そういう人が居たとしたらばね、そういう人は自分をごまかしてるんだよ。と言うふうに理解するのが、一番理解しやすい理解のしかたなんです。ところがね、ところが、新約書の主人公というのはねぇ、自分をごまかしてないわけですよ。

仮にね、そーいう「ことばその通りに信じるひと」が居たとしたら、それは「じぶんをごまかしてる」と理解するのがいちばん理解しやすい。けれど、新約書の主人公・イエスは、じぶん自身をごまかしていないんですよ。

ごまかしてないで、そう言ってるんですよ。言ってるように描かれていますよ。つまり、

ごまかさずに言っているように、聖書では描かれている。と。つまり、

これはね、フィクションであると理解するかね、そうじゃなければフィクションであると、つまり、これは史実(しじつ)に反するというふうに理解するか。あるいは、言葉としてそういうふうに創っただけだ、って、つまり、言葉のフィクションだと言って理解するか。あるいは、

これを「ことばのフィクション」として理解するのか、それとも「史実に反した読みもの」として理解するのか、はたまた、

そうじゃない、もう少しちがうことを言おうとしてるよ。と理解するか。どちらか。あの、その3つしかないだろう、と言うふうに思うんです。

「そうじゃあない、このふたつとはもう少しちがうことを言おうとしている」と理解するのか。という、そのみっつしか理解のしかたは無いだろう。

って、このみっつめのことってば、なんだかすごいー。

あの、なんて言いますか。ぼくの解釈ですと、「フィクション」か、「ノンフィクション」か、「フィクションでもノンフィクションでもない物」か、みたいな。えーと、その枠を飛び越えようとしている感じがすごい気がする。。。

講演をつづけます。

それで、もう少しちがうことを言おうとしてるよ。って言うことについて、僕は言ってるわけです。

そして吉本さんは、みっつめの「もう少しちがうことを言おうとしている」のことについて言っている。とおっしゃいます。これは、どーいうことか??! あんのじょー、このつづきは次回noteで聴きたいとぞんじやす。

そんでいま、「ポケモンGO」ダウンロードしたもんねー!!!!

平成28年7月22日



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