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「建設」について想いを馳せたい。

前回noteからのつづきです。】

一度目の「展覧会 岡本太郎」では、
展覧会を訪れる前の用事からの疲労もあってか、
見逃してしまっていた作品
『建設』をね、ようやく、
じっくり観ることができました。

前回のブログでもしるしましたが、一度目の鑑賞のとき、
ショップで見かけて作品の展示に気づきました
A4サイズの「作品プリント」はね、
このとき購入をして、部屋で飾りながら、
作品鑑賞の予習をしていたの。

A4サイズの「作品プリント」

そしてまた、さらなる予習として
SNSで検索してネットの画像でも観ながら、
でも、作品プリントや画像では、
いかんせん、作品のサイズ感がわからなくって。
どのくらいの大きさなんだろう?
というのは、考えていたのですが。。

まずはね、作品の前で立ち、
作品単体で撮ってみるも、やはり、
これではサイズ感はわからないな。

(写真撮影OKなので、スマホ撮影しました!)

前回noteの最後の写真と、
今回のトップ画像は同じものなのですが、
こうして遠くから見れば、そのサイズは、
案外、大きいんだけれども、でも、
岡本太郎さんのその他の作品と比べれば、
めちゃくちゃ大きいものでもない、とも思われる。
つまり、一度目のときに作品に気づかなかったのは、
めちゃくちゃ大きいサイズじゃなかったからこそ、
なのやもしらないか。そしてまた、
ぼくは、数年間、
「ほぼ日手帳」で『建設』のカバーを使っていたので、
逆に、手帳のサイズに近い
「作品プリント」では気がついた、
ってゆうのはさ、なんだか、
じぶんの感覚として、おもしろい。

今回、あらためて
『建設』を鑑賞するにあたって、ひとつ、
企画として考えていたのはね、
作品とほぼ日手帳とで
いっしょに撮影することなのでして。

手帳の裏表紙と『建設』。(カバーのポケットがついている側)
手帳の表紙と『建設』。(上の画像の反対側)
そして、すこし離れて撮影。

現在使っているカバーを外して、
押入れから『建設』のカバーを出して、
手帳にはめて、美術館へと持ってきて、
こうして、念願のね、
作品とほぼ日手帳とで撮影できました。

「作品プリント」で観ていたときにも思ったのですが、
この『建設』が、ほぼ日手帳の
カバーになるにあたっては、じつは結構、
トリミングされているんだなあと感じました。

そのトリミングの箇所をね、
「作品プリント」の上から
マスキングテープであててみると、こんな感じ。

とくには、作品の右側が
大きめにトリミングされているなあ。
これは、中央の「柱」のような箇所が
手帳のポケットの切れ目として使われているから、
そのサイズに合わせてのことだとはぞんじますが、
手帳だけで観ていたときには、
トリミングのこと、知らなかったなあ。

さらに、このトリミングによって、
作品左下、太郎さんのサインも
手帳カバーには載っていない、ということも、
この機会で初めて知りました。

『建設』という作品は、この
中央の「柱」のようなものが描かれている、
という構図が特徴的なのだと思うのですが。
そもそも、岡本太郎さんの
その他のどの作品でもなくって、この
『建設』がほぼ日手帳のカバーになる、って、
すんごいアイディアだなあー。つまり、
ほぼ日手帳の「ポケット」の箇所には、
この構図がうってつけだし、もっと言えば、
『建設』とは、ほぼ日手帳のこのカバーのために
作られたんじゃあなかろうか?!
とも思ってしまうんだわー。

『建設』のキャプションも撮影。
このキャプションより、
文書を引用いたしますと、、

旧東京都庁舎のための壁画の1点の原画をもとに、独立した絵画として制作され、1956年の二科展に出品された作品。壁画に取りかかる前に訪れた視察での、都庁庁舎の建設中の光景を描いたものと推察できる。スパナやつるはし、ハンマーを持った人物や、躍動する大衆の姿などがダイナミックな動きを形成している。画面中央に縦に走る構造体の右側には、その生成のエネルギーを擬人化したような、大きな横顔も認められる。

ここで記されている
「スパナ」や「つるはし」や「ハンマー」は、
そう言われてみれば、ほぼ日手帳のカバーでは
トリミングされていることもあって、
切れているところもあるのですが。
でも、やはり、なんだか、
その「躍動」は作品から、及び、
手帳カバーからも感じられるなあ。

ぼくは、この手帳カバーを使ってから、
作品だけでなくって、
「建設」ということばもね、
なんだか、好きになったんだった。
それはつまり、このことばの中には
キャプションで記されていた「躍動」もあれば、
未来に向けた「希望」も感じられるし、はたまた、
後ろに「的」をくっつけた
「建設的」という語句もあるけれども、たとえば、
「建設的な話し合い」という意味だけでなくって、
「しっかりと生きる」というような意味にも取れるから。

「建設」のごとく、
生きることができたら。
ってゆう願いも込めながら、
展覧会の開催期間のあいだでは、
この『建設』の手帳カバーのまま、
過ごしたいなあ、そして、もっと
「建設」について想いを馳せたい、
とぞんじました〜。

令和5年3月6日


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