好き勝手な解釈をしないためには。
前回noteでは、歌の「解釈」について
ぼくなりの考えを申しあげました。
そのことから、また、あらためて
「解釈」とはなんだろう? って考えているの。
前回でも申しました先日のブログでは、「解釈」とは
「メタファー(暗喩)」を推察すること、
なのだと述べておりました。つまり、
あることば及び文章には、メタファー的な意味が
込められている場合もあると思うけど、
メタファーというのは、ことばとして
直接的には記されていない、もしくは
具体的には記されていないからこそ、そのことばが
「メタファー」であると判断するのは、
じつはけっこうむつかしい。
先日のブログ、及び、今、
ぼくは「推察」という熟語を使ったのですが、
推察って、完璧にはできなくって、たとえば、
その場面、及び、そのときの気持ちによって
「邪推」をしてしまうこともあるから。
そのような邪推によって、物事が
悪くなってしまうこともありうるだろうし。
いわば、推察とは、
仮定を超えられないんだから。
「解釈」は、『広辞苑(第七版)』では
【文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。
また、それを説明すること。】
と記されているですが、ぼく自身のなかでは
「解釈」と「理解」って、
ちょっとちがうようにも感じている。
「理解」とは、ある文章や物事の
そのもの自体をきちんと読み取ることだと思うけど、一方、
「解釈」とは、その文章等の
そのもの自体ではなく、そのものに込められている
「行間」みたいなものを考察することだと思うの。
だからこそ、ただただ読み取っても、
「理解」はできたとしても、
「解釈」はできない、ということもあるとも思える。
このような、
解釈について考えるときに頭をよぎるのは
「憲法解釈」という概念だなあー。
憲法解釈について、ぼくは
詳しいことは語れないけれども、たとえば、
憲法の文言があったとして、その文言では
具体的には定められていないことを、
これからはこのように解釈する、
とのように考えることだとは存じますが。
それは、ときには、その解釈を
時の権力者が決めることもあるだろうから。
権力側の都合によって好きに解釈を変える、
という場合もあるんだとすれば、
こわいと言えばこわいとも思えたりもする。
とは言いつつ、
解釈のこわさとは、べつに
権力者と憲法解釈のことだけに限らず、
誰しもが、つまり、ぼく自身だっても
ある物事を好き勝手に解釈することは、
ありうるだろうから、そのときには
ぼくはぼく自身のことをこわいとも思える。
好き勝手な解釈をしないためには、
どうしたらよいか?
ってえのもよくわからないけれども、
なんだろう??? たとえば、
主観だけでなくって、
客観的な視点を持つ、的な?!
いや、でも、
客観だっても間違う場合もあるし、
つまり、客体による共感が
すべてじゃあないとも思うし、なおかつ、
多数派側が損なっている状況もありうるからこそ、
うまく言えないけれど、解釈って
非常にむつかしいとも思える。
それでも、ある物事や文書の中に
すべてが記されていなければ、というよりも、
すべてを記すのは理論的に不可能だからこそ、
解釈をしてゆかないとならないときもあるんだから、
やはり、ぼくは、解釈を
あきらめたくないと思えたい!
令和6年11月18日