太陽の塔と愛の距離について。
先日、愛知県美術館にて
二度目の「展覧会 岡本太郎」を鑑賞いたしまして。
ぼくの一度目の鑑賞は2月上旬だったのですが、
一度目のときと二度目のときの違いについて言えば、
『太陽の塔(1/50)』が、
ある鑑賞者によって一部損壊された事件ののち、
作品は一時撤去、つまり、鑑賞できなくなっていたのが、
その後、応急的な修復をしたうえで、
現在は再展示が行われている、のことと存じあげます。
ぼくは、事件に関しては
詳しいことも存じないので、
何かを述べることもできないけれども。
一度目の鑑賞のときにはね、この展示室では、
向かい合った二つの『明日の神話』で挟まれた
『太陽の塔』、という展示空間がすごいなあ!
とは感じながらも、前回noteでも記しましたような
つよい疲労感もあってか、なかなか、
ゆっくりとは観られなかったですが。
先日、二度目の鑑賞の際には
この事件があったことも鑑みながら、
『太陽の塔(1/50)』をあらためて鑑賞しながら、
なんだか、いろいろ、考えていたんだった。
まずはね、
『太陽の塔(1/50)』について、
事件前と再展示後では、
展示の位置がすこし変更されている、と思ったの。
(写真撮影OKにつき、スマホで撮影を致しました。)
今、ぼくが「思った」と言ったのはさ、
一度目のときには、
じぶんの記録として撮影をしておらず、
じぶんの記憶もうろおぼえでもあるので、
たぶん、そうだった、と思ってのことなのですが。
一度目で鑑賞したときには、たしか、
『太陽の塔(1/50)』は、もうすこしだけ
後ろの壁から近い場所で置かれていた、と思う。
一度目のときにそういうふうに感じたのはね、
『太陽の塔』の背面には
「黒い太陽」の顔が描かれているけれども、
そのお顔がこの壁のすぐ近くにあって、
ちょっと鑑賞しづらいかなあ、と思ったから。
でも、それがね、
再展示後ではこのように「黒い太陽」も
しっかり拝見することができるようになった、つまり、
作品の全体を鑑賞するということで言うならば、
再展示後における展示位置のほうが、
ぼくは、よいなあ、とも感じたんだった。
また、一度目の鑑賞のときでは、
ここまで近づいてもOK、という
敷居の線の位置がもっと近かった気がする。
(あぁー、こんなにも近くって、
触れることができるかのごとくの場所から
鑑賞できるのかあ!)
って感じた記憶があるからさ。
でも、事件を経ての再展示では、
作品は、これだけ、遠ざかってしまった。
それはね、この『太陽の塔』の
正面にて展示されている
『生命の樹 全景模型』も同様で、、
以前のときには、この手で
触れられるぐらいに近かったと思うけれども、
再展示後では、やはり、
ある距離が設けられることになった。
このことからぼくが思ったのはね、
「近い」ということは、
手で愛でることもできるような親密感もあるが、
手や身体による暴力性も孕んでいる。逆に、
「遠い」ということは、
親密感が下がり、その同時に、
暴力性も薄まる。
というふうに考えてみれば、
美術作品の鑑賞において、
どのような距離が適切なのか? って、
むつかしいことなのやもしらないな。
「距離」について考えるときに
さらに思うことは、
今回の「展覧会 岡本太郎」にて、
序盤の展示室で展示されていた
『愛』という作品について、なのですが。
この写真の左側では、
おおきくてとげとげしているかのごとく、つまり、
「男性」をモチーフとされたような立体物と、
写真の左側には、
しなやかでふわふわしているかのごとく、つまり、
「女性」をモチーフとされたような立体物とが、
お互いで向き合いながら、横たわっている。
この『愛』という作品を観ながら、
「男性のごとくのモチーフ」と
「女性のごとくのモチーフ」との
距離の感じが絶妙、と申しますか、もしくは、
この距離よりも、近くとも、遠くとも、
この作品には成らない、と申しますか、
さらに言うとすれば、
『愛』とは、つまり
「距離」のことなのではないか?!
とも感じられたんだった。
今回の『太陽の塔(1/50)』にまつわる事件のこと、及び、
『愛』という作品を鑑賞しながら、
なんだか、このようなことを考えつつ、
ぼくはさ、たとえば、
「他人との距離」というのが、
うまく取れないような人間なので、
そんな距離を養えることができたならば。
と、思いました。。。
令和5年3月7日