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「できない」の度合い。(不可能かどうか?)

「できない」ことが
「できる」に成るためには、
どうしたらよいか?
ってゆうのを考えるときにね、ぼくは、その
「できない」の度合いというのは大事だと思うの。

おおまかで分けるとすれば、ぼくは
「できない」には二種類あると考えていて。
それは、つまり、
「困難」と「不可能」です。
前者の「困難」とは、
むつかしくてできない、そして、
後者の「不可能」とは、
そもそも可能じゃあないからできない。

むつかしくてできない「困難」なことは、
練習したり考えたり教えてもらう等によって
むつかしさを克服することができれば、もしかしたら
「できる」ようになるやもしらない。でも、その逆に
そもそも無理とも言える「不可能」なことは、
どれだけ練習しても考えても教えてもらったとしても
そもそもが不可能なんだから、それが
「できる」ように成るとも限らない。

というふうに考えるとすると、
「できない」が「できる」に成るためには、
「困難」の「できない」か、それとも
「不可能」の「できない」か、を、
見極めることが重要なんじゃあないかなあ、って。

どちらかと言うとね、ぼくは日常的に
スポーツをそれほど観ないのですが、
このごろは、たとえば、
プロ野球は大詰めだし、はたまた
アジア競技大会も開催されているので、テレビや
ニュースでスポーツを観る機会も多いけれども。
プロ及び国際的に活躍されるスポーツ選手とは、
人間の身体の能力を最大限に、もしくは
それ以上に引き出されているかのごとくで、すごい。
いやいや、子どものころからスポーツが
からきしだったぼくから見れば、たとえば、
中学や高校の部活動にて全国大会はもちろんのこと、
県大会へとゆかれるのも、すごい!

スポーツだけでなく、このごろでは
ノーベル賞の発表もされているのですが、
ノーベル賞各賞を受賞なされる方々も、
ぼくはくわしいことはまったく存じないけれども、
人間の能力の最大限以上の研究の成果によって、
受賞なされるのだろうと思われる。

スポーツ選手の方々も、そして
ノーベル賞の方々(だけでなくって
あらゆる研究に携わる方々)も、
「できない」を「できる」へと変えられている、
とも言えるのでしょう。
このときの「できない」というのは、おそらく、
かねてから「不可能」だと言われていたことを
「可能」になさった、のかもしれない。
つまりはさ、その「不可能」とは
じつはほんとうは「不可能」ではなかった。

とも言いつつ、ぼくは、ぼくなりに、ぼくの
「できる」ことをしながら、なおかつ、
「できない」ことも、
「できる」へと変えて、じぶん自身の
「できる」ことを増やしてゆけたいけど〜。

令和5年10月4日

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