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プリゾナー・オブ・ログ。

前回noteでは、ぼくはなぜ、
ブログを書いているんか? ってゆうのはさ、
じぶんでもようわからん、たとえば、
だれかへどうしても伝えたい、ということも
とくに無いんだし。けれども、その根拠をね、
強いて挙げるとするならば、それは
「義務感」だとも思っている、
みたいなことをしるしたのですが。

ここからさらにもうすこしだけ、
ぼくがなぜブログを書いているか?
のことをじぶんなりに考えてみました。

ぼくは、二十代前半ごろだった2005年ごろ
ブログを書き始めまして。当時はさ、
ホームページの掲示板(BBS)に書き込む、
みたいなことはあったとしても、
SNSはまだ無かったし、なので、
インターネット上で文章を書くことについて、
ホームページを作るような知識が無いぼくにとっては
「ブログ」のサービスというのは、とってもお手軽で、
このじぶんでも文章を書ける、ってえのは、
正直、うれしかったし、たのしかった。

でも、そんなブログを続けてゆくうちには
うれしさやたのしさだけでも無くなってきて。
つまり、文章を書くことにおいて、
そのじぶん自身の文章のことばによって、
だれかを傷つけることにもなりうる、
ということが、よくわかっていなかった。
そして、なおかつ、
じぶん自身のことばによって、
じぶんをも傷つけることもありうる、
ということさえも、全然、わかっていなかったの。

はたまた、そのころでは
ブログだけでなく実生活のほうでも、相手に対して
ひどいことばを言ってしまうようにもなっていて。
そのころのじぶん自身のことは、
ほんとうにひどかった、と、
じぶんでは思いながらも、だからと言って、
そんなひどいようなことを言ってしまったことを、
謝れば、よい、というわけでもない、と思っている。

そして、このことから、
現在もなお、ぼくがブログを書いている
理由を考えてみれば、つまり、
断罪と申しますか、懺悔と申しますか。
つまりはさ、そんなぼく自身が
赦されたい、と、考えているのやもしれない。
それは、でも、実際的に、現実的に、
その相手の方々から、許されたい、
というだけではなくって、たとえば、
そんなことばを使っていたぼくは
「ことばの神様」の怒りを買い、つまり、
「ことばの神様」から、赦されたい、
と想いながら、ぼくはブログを書き続けている、
と、考えられるやもしらない。

だから、ぼくとしては、たとえば、
文章を書くことが、好きか、嫌いか、とか、
もしくは、じぶんにはなにか
書きたいことが、あるか、ないか、とか、
そういうことはあんまり関係していなくって、
ただただ、書くだけ、
ってゆうことがね、つまり、
「義務感」ということばに現れているんだろう、と思う。

でもね、ほんとうはね、
どれだけ書いたとしても、だれからも、
赦されることはない、ということは
わかってるんだ。

それでも、いつかは、、、
と祈りながら、日々、
今日もブログを書けたならば。。。

というこのことを考えていたら、
ふと、なんだか、まさにじぶんは
「囚人」のようだなあ、とも思えてきて。
そう思ったら、宇多田ヒカルさんの
『Prisoner Of Love』の曲を思い出していた。
ともすれば、この
ぼくのブログとは、さしずめ、
「プリゾナー・オブ・ログ」なのでしょう。

退屈な毎日が 急に 輝きだした
あなたが現れた あの日から♪

令和5年6月28日


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