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表現とは怖いか救いか。(fanfare_Remix)

昨日のブログでは、漫画家に成りたいと言われていた
あるお知り合いより絵を見てほしいとのことで、
以前、彼の描く作品を拝見させてもらったときにね、
彼は、他人に作品を見せることは
「恥を捨てるため」とおっしゃっていたけれど、
そのことをあらためて考えると、ぼくとしては
「恥」という気持ちは捨てないほうがよい、
って思ったことをしるしました。

それは、つまり、
「恥を捨てる」とは、究極を言えば
恥じらうことなく全身素っ裸で街を駆ける、
という状況と似ている気がするから。

ならば逆に、
全身素っ裸にはならないで、
たくさんの服をまとい、
身を守る鎧のように着飾りながら、
街を駆ければよいか、と言えば
それはそれでちがうとも思える。

表現をするというのは、比喩として
「裸になること」だとも言われていると存じますが。
裸になるかのごとく、つまり、いろいろなことが
ばれてしまう、というか、かくせない、というか、
伝わっちゃう、というか、嘘もわかる、というか、
なにもかもが、そこから
透けて見えてしまうようなことだとも思うの。
だから、どれだけ
着飾ったとしてもしょうがない。
ってゆうのをね、ぼくとしては思っているんだけども。

でも、たとえば、
ある表現を一目見ただけで
全ての嘘を確実に見破られるか? と言えば、
そうはゆかないとも思うけれど。
一目だけだけでなくって、
表現をずっとつづけてゆくならば、
そのついた嘘もばれてゆき、そして、
いろいろなこともわかってしまうのでしょう。

これは、でも、表現とは言えども
「作品をつくる」ことだけに限らず、いわば、
「なにかを言う」ことだっても
ある種の表現なのだとすれば、それもやはり
いろいろなことがわかってしまうものだと思われる。
「なにかを言う」こともね、
なにを言うのか、プラス、
なにを言わないのか、ということも
そのなかには含まれるから、その
言うことばの中に含まれる情報は二倍だ!!!!

ならば、いっそのこと、
腹の中に隠す「本音」さえも
腹を割ることなく話したとしても、
そこで見えて来てしまうものやもしらない。
だからと言って、本音も何も
まったく言わないというのも、
よくない、とも思えども。。。

そう思えば、表現とは
「怖い」ものだとも感じちゃうけど、
でも、ある意味では
「怖い」だけでもないとも思うの。
つまりはさ、たとえば、
じぶんではよくわからないじぶん自身のことが
その表現の中で込められている、というか。
じぶんがじぶん自身の本音に迷ったとしても、
じつは、もう、その表現の中に
すでに表れている、というか。
そういうふうに思ってみたら、表現が
「救い」になることもあるかもしれないなあ。

ひょっとしたら、
これを読むあなたのほうが、
ぼくよりも、ぼくのことを
知っている場合もありうるぜ。

きっと 今日も あなたの瞳で
僕も知らない新しい僕は
ぐるぐる旅をしてる おおぉぉぉ〜♪♪♪

令和5年9月23日

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