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「できること」をすること。(ほぼ日ver.)

ぼくは、WEBサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」
(通称:ほぼ日)が好きで、日々更新なされる
「ほぼ日」を読むのが日課のようになっている。

ぼくが「ほぼ日」を熱心に読むようになったのは
2005年ごろだったと記憶していますが、その以降、
「ほぼ日」を日々読むことによって、
知ったこと、考えたこと、思ったこと、思い出したこと、
笑ったこと、感動したこと、感激したこと、励まされたこと、
などなどたくさんあったと思うし、そして、それらは
これからもたくさんたくさんあるのでしょう。

その日々の中でもね、ぼくがとくに励まされていたのは、
平成23年3月、大震災が起きた時期でした。
大震災の起きた後、多くの方々がそうなのだとも存じますが、
被災の地より遠く離れた場所で住むぼくも
災害のニュースを眺めながら心痛めていたし、
また、とてつもない無力さを感じていた。
とくに、このころぼくは20代後半で、
その数年前に体調を理由で仕事を辞めてから
別の仕事はせず半ひきこもりのごとく過ごしていたから、
なおのこと、無力感も強かった。

そのころ「ほぼ日」では、「ほぼ日」なりの
大震災に関するコンテンツが更新されるようになり、
ぼくもぼくなりに、日々、
「ほぼ日」を読みながら励まされていたけれども。
一番励みになっていたのはね、のちにそれらのコンテンツが
書籍としてまとめられた本のタイトルにもなっている
『できることをしよう。』ということばでした。

何者でもない「ふつう」のぼくは、つまり、ぼくらは
何かの劇的かつ特別なことはできなくとも、それでも、
それぞれが、それぞれの場所で、
それぞれの「できること」をする。

とくに大震災のような事態が起きたときには、
「できること」しか「できない」のだし、それはつまり、
一種の「あきらめ」ではあるけど、でも、
「何もかも完全にあきらめている」のではなくって、
光の射す方向を見るような、
ポジティブな「あきらめ」なのだ、と、
ぼくとしては解釈しているんですが。
震災のようなときだけでなく、ふつうの日常においても
ひとつずつ希望を数えてゆくような
『できることをしよう。』というのは、
とっても大事なことなんだ、って思うようになった。

また、「ほぼ日」では
主宰の糸井重里さんが毎日書かれている
「今日のダーリン」というエッセイも、
ぼくは日々、拝読しているですが。
大震災の直後のころには、このエッセイを書くのも
毎日何時間も考えられて書かれていた、というのを
その後の糸井さんのインタビューで読んだ記憶もありますが、
そんな時期でも毎日更新されていた
糸井さんの「ことば」を読むのが励みになっていたし、
いろいろ思ったり考えたりもしていた。

ぼくはこの当時ブログを書いてなかったけど、
その翌年だったかな、2005年に書き始めてから
あるころにやめたじぶんのブログを再開させて、
こういうようなじぶんなりの文章を、
今はここ「note」で記しておりますが。
そういうようなブログを書く、というときにはね、
いつでも、どんなときでも、
大震災のころ糸井さんが書かれていたような
(ぼくと糸井さんとを比較するには規模も内容も違いすぎて、
あまりにもおこがましいのですが。)
気概のようなものを持てたら、というのは、
いつも思っていたいの。でも、
それもこれも基本となる考え方は、やっぱり、
『できることをしよう。』なんだろう。

今日も今日とて、
ぼくは、ぼくなりに、ぼくの持ち場で
ぼくの「できること」をしたい!

令和5年10月3日

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