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常識と鎧を脱ぐこと。

今じんこさん著のコミックエッセイ
『学校に行かない君が教えてくれたこと
 親子で不登校の鎧を脱ぐまで』を読みました。

この書籍で描かれる不登校について、ぼくが思い出すのは
中学生のとき、当時は「不登校」ではなく
「登校拒否」と言われていたと存じますが、
同級生の友人のおうちにあそびに行ったとき、
友人の弟さんが学校へ行けていないというのを聞いて、
ぼくは友人の弟さん本人に対して
「学校行ったほうがいいよ。」と言うと、
その場には、ぼくと友人(Sくん)と弟さんともうひとり
友人(Kくん)が居て、Kくんから
「そんなこと言うもんじゃない!」と怒られ、
はっとして、ぼくは、ごめん、と謝ったですが。
ぼくとしてはたぶん、当時、学校へ行くことに対して
ときには悩んだりしたとしても、とくに
思いわずらうことなく学校に行っていたから、
気兼ねない感じでそう言ってしまったと思うけど。
なにかしらの事情があり、その事情も知らないままに
簡単に意見するのは良くないし、そして、
学校へ行かないということだっても、
悪いとか良くないとかではない、と、反省したのだった。

今じんこさんの著書
『学校に行かない君が教えてくれたこと』では、
じんこさんの長男・もっちんさんが
小学一年生のときに不登校になられて、
悩みや苦しみや恐れや葛藤や問題、そして
答えまでたどりつくまでが描かれていて。
読みながらいろいろなことを思ったと思うのですが、
そのいちばんは、やっぱり
「常識」のことかなあ? つまり、
このうえで申しました中学生のときのぼくも、
そういうふうに感じていたんだと思うけれど、
学校へ行くことは常識であり、
そこから外れないほうが良い、なおかつ、
常識からひとたび外れてしまえば、
数奇な目で見られてしまうかのごとく。

でも、今、思えば
「常識」ってなんなんだ?! とも思うし、
「常識」という概念では計れないような、
人それぞれの生き方があるんだと思う。
とは言えども、常識、つまり、
一般的な生き方より外れてしまえば、
生きるのが困難になってしまうことも考えられる。
だからこそ、福祉による支援が大切なのだなあ、って。
『学校に行かない君が教えてくれたこと』を読み感じたのは、
不登校となったもっちんさん、及び、
もっちんさんのご家族が、
支援につながるまでが非常に大変だった。
おそらく、支援においても、
支援者さんと利用者さんとの相性もあると思われるし、
支援と無事につながり、そして、そこで出合う
同じ境遇の人たちと話すことでも救われてゆく。

また、この書籍の中では、いくつか
コラムやアンケートも掲載されておりまして。
そのなかのひとつの文章では、
「日本国憲法第26条第2項」において
教育を受けさせる義務、及び、
「学校教育法第17条第2項」において
保護者が子に小学校・中学校に就学させる義務が
記されているけれども、このことについて
弁護士山田邦明さんによれば、この法律は子どもを
ネグレクトや強制労働から守るため定められていて、
学校に行かせない正当な事由がある場合、
この項目に違反することはない、そして
法の趣旨に反しないような不登校はこの
「正当な事由」に該当する、とのことで、(書籍120頁より。)
なるほど、と存じました。

ぼくはぼくで、たとえば
不登校の問題だけでなく、
たぶん、あらゆることにおいて
「常識」かどうかで考えてしまっていて、
他人を、もしくは、じぶん自身を
否定するように思ってしまうこともあると思う。
でも、そのことが、つまり、
この書籍のサブタイトルになっている
『親子で不登校の鎧を脱ぐまで』というその
「鎧」なのやもしらないな。

そういうような「鎧」を、
ぼく自身も脱げたらよいのに。

令和6年8月17日