スーパーヒーローってなんだろう(ミュージカル『SUPERHEROISM』諸々感想①)

※ゴリゴリにネタバレします。
※1公演しか見ていないため、台詞や演出などは少し異なる形で覚えてしまっているところも多いかと思います。ツイッターで他の方のレポなどを見つつ補完してますが、ズレたことを言っているかもしれません。
※大光担なので、大光やピーマンに焦点を当てた感想が多いです。


中村嶺亜と佐々木大光が座長を務めるミュージカル『SUPERHEROISM』6/24の昼公演を観劇してきた。
2020年の夏に佐々木大光を好きになってからおよそ10ヶ月、ようやくステージに立つ生身の彼を見ることができた。ずっと画面の中の存在だった推しが裸眼でも表情がわかるくらいの距離感にいたこと、正直あまり実感が湧いていない。しかし大光と嶺亜さんは間違いなく存在していたし、画面で見る何倍もかっこよくてかわいかった。他の演者さんや作品その物もすごく魅力的な舞台だったように思う。折角なので、備忘録も兼ねて色々と感想を書き連ねておきたい。

1.作品について―スーパーヒーローってなんだろう?―


私は今回、この作品についての情報を極力入れない状態で観劇へ向かった。なんとなく、コメディ色が強そうだし最終的には大団円で終わるんだろうな〜とか、中村麗乃ちゃん演じるチサはゴタンダとピーマンどっちとくっつくのかなあとか考えながら。
実際、物語は基本的に明るい雰囲気、明るい音楽と共に進んでいった。最終的にHBM内で起こっていた事件は全て解決したし、ゴタンダは幼い頃からの夢であるヒーローになることができた。物語はハッピーエンドと言って差し支えないだろう。しかし、この舞台の終わりに私が感じたものは、幸福感を上回る空虚感だった。

私がこの舞台を見る最大の目的は佐々木大光という演者で、私は常に佐々木大光が演じるピーマンを軸にこの物語を追いかけていたから、尚更そう感じたのかもしれない。
この作品のクライマックス、ピーマンは自分にとってのヒーローであるゴタンダに後押しされて、1つの作戦を実行する。それは、愛するチサのヒーローになるための作戦だった。しかしその行動は結果的にチサが影で行っていた悪事を暴くことに繋がる。そしてチサはピーマンにこう吐き捨てた。「あなたのことが嫌い」だと。あなたがずっと見ていたから私の悪事がバレたのだと。
連日HBMに通い、チサの姿を陰ながら見つめることは、奥手なピーマンにとっての唯一の愛情表現だったはずである。しかしその愛は、激しい嫌悪の言葉と共に突き返されてしまった。その後ゴタンダが、ピーマンも自分もチサのことが好きなのだと伝えるも、彼女は彼らの愛に価値を見出すことができなかった。ピーマンとゴタンダの愛を拒絶したチサはそのままHBMからも『SUPERHEROISM』という物語からも退場してしまう。

一方、愛する人に真正面から嫌いだと告げられたピーマンは絶望した表情を浮かべたのち、舞台に背を向け、それ以降の表情は観客席からは伺うことができない。肩を落として呆然と立ちつくすピーマンに、HBMの店長は「君がこのスーパーのヒーローだ。」と声をかけるが、彼の落ちた背中は変わらない。ヒーローマントの代替品であるHBMのエプロンを虚しくはためかせながら、形だけのヒーローと成り果てたピーマンは舞台から退場していった。
ピーマンは"スーパーのヒーロー"になることはできたが、彼が何よりなりたかった"愛するチサのスーパーヒーロー"にはなれなかったのである。

そして場面は変わって、ピーマンに関する騒動が落ち着いたあとのHBM。脅迫状を送ったことについての自首を試みる魚部門チーフのオダを庇って咄嗟に嘘をつくゴタンダ。ゴタンダの発言によって丸く収まったHBMの面々は明るい空気の中で日課のLOVE体操を始め、物語は終幕を迎える。まるで、全てが上手くいったかのように。
私が空虚感を感じた理由はここだった。一件落着といった様子で明るく平和な日常を取り戻すHBM。しかし、そのHBMにチサの存在はない。そして恐らく、チサを見るためにHBMに通っていたピーマンがこの先のHBMの日常に登場することもないであろう。しかし、その2人の喪失には何も触れることなく、HBMの面々のみならず『SUPERHEROISM』という作品そのものが大団円の雰囲気のまま終わっていく。ピーマンを軸にして『SUPERHEROISM』の物語を追いかけていた私は、ここで急に置いてけぼりにされてしまったのだ。愛する人からの嫌悪に絶望し、求めていなかったヒーローとしての祝福を受け、肩を落としてHBMから去っていったピーマンと、ピーマンとチサの存在を忘れたような『SUPERHEROISM』のハッピーエンドの雰囲気に置いていかれ空虚感を感じた私は、ある種同じような気持ちを抱いていたのかもしれない。

もしも、ここで本当に物語が終わっていたら、私はこの作品のことをあまり好きになることができなかっただろう。しかし、終幕を迎えたと思った『SUPERHEROISM』には少しだけ続きがあった。最後の最後、舞台の中央に1人立ったゴタンダは笑顔でこう述べる。

「ヒーローになるということは、案外、虚しいものです!

この台詞で、私が感じていた空虚感はいくらか救われた。
確かに、ピーマンが起こした行動はHBMで起きていた悪事を暴き、ピーマンはスーパーのヒーローになった。しかし、それはピーマンが求めていたヒーローではない。彼はヒーローになったのに、誰よりも大切だったチサを守ることができず(それどころか彼女の暗い面を暴いてしまい)チサに想いを届けることも叶わなかった(それどころか面と向かって嫌悪をぶつけられてしまった)。そんな状態で他の人々から感謝を伝えられたところで、それは虚しいだけだろう。
また、ゴタンダ自身もピーマンの背中を押したり、オダを庇ったりと行動を起こしたことでヒーローになることができたと言えるだろう。しかし、ピーマンの背中を押したことは巡り巡って愛するチセと、助けたかったピーマンの2人がHBMから去るきっかけへと繋がってしまった。また、オダを庇ったことで彼はHBMを去らずに済み、表向きは丸く収まったが、職場内でいくつもの事件を起こすに至ってしまった彼の心の根本的な部分を救うことができたとはいえない。きっとこれは、冒頭でゴタンダが述べていた「性別なんて存在しないくらいに人間離れした完璧なヒーロー」とはかけ離れているんじゃないだろうか。

彼らは2人ともヒーローになったけれど、彼らが思い描いていたヒーロー像は実現できなかった。だから、ヒーローでいることは"虚しい"のだ。
口笛の音が聞こえたら遠くにいてもヒーローは助けに向かうけれど、向かった先で必ず救うことができるとは限らない。また、ヒーローは遠くで困っていても口笛を鳴らさない(助けを呼ばない、助けを拒絶する)人のことを助けることもできない。ヒーローとは酷く不完全な存在で、それゆえ虚しさを感じることも多いのだ。それに気付きながらも自分の信念や幼い頃からの夢に基づいてヒーローで在り続けることが、ゴタンダにとってのスーパーヒーローイズムなのかもしれない。そう私は思う。

さて、先ほどから空虚感という言葉を多用しているが、私は決してこの舞台がつまらなかったとは思っていない。むしろ、ヒーローになった2人が感じた「虚しい」という感情を共有する為にこういった演出にしているのだとしたら、かなりよく考えられた舞台なんじゃないかな、などとも考えている。まあ私がひねくれた見方をしているだけで、本当はコメディとしてもっとシンプルに楽しむ舞台なのかもしれないけどね。あと、チサのヒーローになることが叶わず落胆した姿でHBMを去ってしまったピーマンだけど、将来的(最後のフォーマルな姿のピーマンはHBMでの騒動から何年か経ったあとの姿と解釈してます)にこの出来事を「ヒーローに救われた話」として語っているのはピーマンにとってもゴタンダにとっても救いかな、と思った。欲を言えばその考えに至った経緯をもう少し見せてくれたら、私自身ももう少し救われたかもしれない。

思っていたよりも長くなってしまったので演者について(主に大光について)は記事を分けて書きたいと思います。

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