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コーティング剤を効かせたテレビコマーシャルが絨毯爆撃のように美意識を麻痺させ変形させ続けている / 芸術未満 31

 体育の授業が終わり、教室に戻って着替える際「木下と高井を見ろ」と男子児童の誰かが言った。彼女らはまだ自意識がおぼろな子供のようであった。小学校4年生ではまだ男女が木造校舎の教室で一緒に着替えをしていた。数人の男子らが横目や薄目でチラチラと怯えながらどぎまぎと彼女たちを盗み見ていた。

 シャツの下は裸だった。彼女らは自分たち男子と変わらない体のはずだった。男児たちは緊張から押し黙って凝視している。彼女たちが何か喋りながら照れくさそうに着替える様子を下田も俯きながら見てしまった。自分らが好奇の目で盗み見られているとは知らず、彼女たちは寒そうに着替えていた。下田ら数人の男児はなぜか罪深いようなその光景を無言で見てしまった。

 悪ガキであるヤンマーは彼女らの裸を少しでも間近で見ようと思い、わざわざ掃除用具入れに隠れて覗こうとしていた。彼の悪行はすぐに女子児童に見つかり、彼女らは泣いて教師に訴えた。それ以来、男女は教室で時間をずらして着替えさせられるようになった。

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「女性の裸体は欲望の目で見てしまうので、絵の対象にはしない」と誰か男の画家が言っていたのを、あそびげい(美学芸術学)科の下田は本か何かで読んだことがあった。画家が言うには「欲望が混じった目で絵を描きたくないし、また欲望の目で絵を見られたくない」ということらしかった。描いた「美」の中に「性欲」(らしきもの)が混ざっていると、どうやらその「美」純度が減ずると彼は考えているようだった。確かに、なるほど、画伯の言うことも何となくは分かる気はする。しかしそれが行き過ぎると『ニュー・シネマ・パラダイス』で映画内のキスシーンを検閲削除する神父様のようになってしまわないだろうか。

 当の画家氏はもしかすると裸婦を眼前にすると冷静でいられないのだろうか。または女性が嫌いなのか。

 確かに、裸の女性を「美しい」などと男性が感嘆してみせるのは、性欲を糊塗するための粉飾言語、おべっか、あわよくば見返りを求めるためのお世辞、己の欲望を品位風のもので押し隠すための体裁良い建前、に過ぎない気もする。

 女性の裸身像は成人前の下田にとっては絶対的な力を持つ何かであった。秘められた性への欲望とそれを抑圧する力が強すぎたのか、瞬時に爆発しかねぬ、ぐらぐら煮立つ沸騰寸前の闇鍋を抱えているような、時間も空間も、狭いワンルームマンションも瞬時に消失させてしまうくらい強力な誘引力があった。派手なインド風原色カラーの世界創造神たちが持つとされる荒くれの原初の力を、ボリウッドミュージカル式テンポで内面に激しく惹き起こしかねない。

 かの画家にとっては「欲望の混在した視線」は否定すべきものらしかった。しかしカブトムシも箱の中でお互いを求め合っていた。かの力は自然界や大宇宙で神秘的に働く根源的な力なのではないか。欲望を含むその力を「美」から取り除いてしまうのは生命や人間の生成を「見ないことにする」「無かったことにする」ようで、デモーニッシュな超自然的な凄みと迫力を欠いてしまう気がする。「絶対的な力を秘める圧倒的な存在があるのにそれを描かないとはなんともったいない」というのが十八歳の下田の考えだった。

 女性裸体像は非日常、非現実的で存在自体が夢幻の象徴という感じがした。こういった印象はありふれているかもしれないが「全てが引っくり返った逆さまの世界で地上のあらゆる虚飾や偽善を嘲笑う魔女」のような、法を逸脱した存在にもなり得るはずだった。唾棄すべきポルノグラフィーの中にグロテスクに歪められた屑っぽい美が潜んでいるかも知れない。欲望に塗れた目では美が生み出せないのだろうか。そもそも欲望は否定すべきものなのか。欲望に汚れたら即ち醜で、美とはもう無関係になるのだろうか。となると美などは実に薄っぺらの包装用紙や、つるつるした光沢だけの体裁に過ぎなくなる。欲望を含んだ毒々しい美も艶やかな物ではなかろうか。コーティング剤を効かせたテレビコマーシャルが絨毯爆撃のように美意識を麻痺させ変形させ続けている。こうなると世の「正常」から大きく外れた「狂気」こそが最高の美であるとも思えてくる。




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