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木造校舎の床でプロレス / 芸術未満 30

 世界は性的なイメージで溢れていた。それが良いことなのか悪いことなのか分からなかった。テレビアニメの中で憧れの女性戦隊員がシャワーを浴びる場面があった。藤子不二雄描くエスパー魔美の少女裸身像は少年たちには禁忌のような、否応なく惹かれるが、罪深く、見てはいけないような感情を引き起こした。お守りの中の物は見てはだめだと真顔で誰かが言っていたが、似たようなものなのか。ドリフターズのお笑い特番ではバカ殿様が裸体女性と戯れるお決まりのコントがあった。具体的にはそれが何を意味するのか分からなかった。

 少年の下田には女性の裸は「見てはいけないものだ」と恐れに近い気持ちがあった。まともに正視したらきっと正気を失いかねないと気付いていたのかもしれない。女性の裸体は、制御不能らしい男性たちのおぞましい欲望と結び付いていることを薄々感じていた。神聖な女性像、だとかいう自身の幼い空想を壊したくないという感情もあった。しかし一方ではそれらをずっと見続けていたい、と燃えるような暗い欲望を心の奥底で確かに感じていた。

……………………………

 体育の授業が終わった教室では女子児童たちが服を着替えるところだった。木下と高井を見ろと数人の男子児童が囁き合っていた。

 木下と高井の二人は仲が良く、いつも一緒にいた。木下は髪がやや茶色くリスのような顔をしていた。高井は黒髪のショートカットでどこか小柄なぬいぐるみのような雰囲気だった。たっかんと同じ団地に住む彼女らは勉強が苦手らしく、女教師から疎まれていた。普段の彼女らは明るいのだが、教室の隅にいるときなど、どこか翳があるように思えた。

 あるとき休み時間に彼女たちが下田に「プロレス技を教えて欲しい」と言ってきたことがあった。下田は『キン肉マン』やプロレスに相当熱を上げていたので、彼女らは適当そうな相手に技の手ほどきを頼むことにしたのだろう。

 テリー・ファンクとドリー・ファンク・Jrのファンク兄弟が試合中によく使う技(スピニングトゥーホールド)を下田は簡単なので解説してみせた。彼女たちの体には触れず、下田はジェスチャーで説明してみせた。しかし彼女らは実際に自分たちに技を掛けてほしい、と言う。彼女たちは女子プロレスのファンらしい。四の字固めやコブラツイストも教えてほしいと言う。

「ほんまに?」と下田は驚いたように言った。

「当たり前や。実際にやってもらわんと、わからへんやん」と木下が言う。

「でも本気でやらんといてな。弱くしてや」と高井も技の仕組みを覚えたそうに言っている。

 下田はニスの光沢と、匂いがする木造校舎の廊下で休み時間に二人の女子にプロレス技を教えた。彼女らの体は信じられないほど柔らかく白かった。格闘技は神への奉納の意味があったらしい。夢で土俵やプロレスリングをよく見る。彼女たちの髪に触れていいのだろうか。体が絡まってしまうようだった。他の男子らが見ていない数分の隙に彼女らに四の字固めとコブラツイストを慌てて教えた。小4だったので彼女らもまだ異性など意識していなかったのだろう。しかし自意識がべったりと張り付いている下田は同級生の女子たちを、とうに意識してしまっていた。男子にはないものが女子にはある気がする。プロレス技を自分たちにかけよ、という彼女らの願いにも「弱々しく小柄な女子にそんな事をして良いのか」という恐れと迷いがあった。

 一通り技を覚えたらしい高井は「これで弟にやり返したるわ」と言った。下田は彼女たちとのやり取りを誰かクラスの男子に見咎められてはいないかと気が気でなかった。彼女たちの腕や髪や脚の感覚がまだ体に残っていた。冬だったが彼女らは汗をかいていた。下田は彼女たちに礼を言われて何だか恥ずかしく、二人の目を見ることができないような気がした。



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