ひろゆき氏信者とはどんな人々なのか


ひろゆき(@hirox246)氏のこのツイート、及びこのツイートを発端とする一連の話題について。

といっても、思想の左右にかかわらず誰かの政治的立場・法律の解釈等を批判するつもりは毛頭ない。本稿では、この話題への反応が浮かび上がらせた、ひろゆき支持者の人物像を記したいのである。

辞書至上主義者

活動家たちが座り込みを行なっているとしている現場に行ってみたけど誰もいなかったということを写真付きでツイートしたひろゆき氏。私個人的には意地の悪い行動だなと思いつつ、しかしどうやらここでいう「座り込み」は1日のうちのほんの数分の時間しか行われていないようである。これは確かに、「座り込み」という言葉からイメージされる行為とは距離があるな、と思う。そういった内容のツイートも散見された。

それは別に良い。そもそもそれらってあなたたちの感想なので、誰かが良いとか悪いとかを決める次元ではない。「座り込みだとは思わない」「座り込みの範疇では?」それぞれ大いに結構である。

この後、この行為を「座り込み」と認めたくない人々が出てくる。それもそのはずだ、自分が「座り込み」という言葉からイメージする行為とかけ離れた行為を「座り込み」だと主張されたら、たまったものではないだろう。

ここでひろゆき信者が持ち出すのが、辞書である。要するに、「辞書に書かれている「座り込み」の意味はこうだから、それに該当しない行為は「座り込み」とは認めない」と主張したいのである。極めて単純明快だ。

ここで私は、「あなた方はどれだけ辞書を信頼しているんだ」と思ってしまう。そういう人たちは大抵、数ある辞書から、自分に都合よく書かれているものを引用する。「辞書」に書かれる「意味」を持ち出すのであれば、そもそも「辞書」の定義、「意味」の定義を知ってからだろうと思う。辞書が「完全な正解」と考えるのは、幼稚すぎませんか、と。

まあ「座り込み」の定義なんて(多分)誰も決めていないし、定義だなんだは面倒だから、そんなことをする人はいない。大いに結構だ。僕だってそんなこと滅多にしないが、その代わりに安易に他人を攻撃するような主張もしない。ひろゆき信者は辞書に書かれてれば🆗だと思っているから、自分が読んだそれに当てはまらないのであれば「座り込み」ではない、と一蹴する。

それではひろゆき信者に問いたい。あなたは、全ての言葉を【辞書の意味通りに】使いこなしていますか?もしそうなら、「座り込み」という言葉の辞書的な意味にあてはまらないから「座り込み」ではない、という論法は成立する可能性がある。そうでないならば、成立しない可能性がある。というか、虚をつかれるだろう。


辞書的な意味に縛られる人生、お疲れさまです(笑)


コミュ力に乏しい

「座り込み抗議が誰もいなかったので、0日にした方が良くない?」というツイートが文字通りに「座り込み抗議が誰もいなかったので、0日にした方が良くない?」という提案でしかない訳がない。ひろゆき氏がどういう意図でツイートしたかはあえて推測しないが、少なくともその受け止め方というのは色々あるはずだ。ひろゆき氏はそういった反応を予想しつつ、言ってしまえば「あえて」ツイートしたのだろう。しかし、ひろゆき信者の中には、「「座り込み抗議が誰もいなかったので、0日にした方が良くない?」という提案でしかないのに、何をそんなに騒いでいるんだ」とツイートする者もいて、はっきり言ってたいへん哀れに感じた。

全ての発言には受け手が存在する。だから、全ての発言は、受け手の反応を予想した上でなされる。反応に対して適切な物の言い方をするか、あえてセオリーから逸脱した言い方をするか、その判断は発言者に委ねられることになる。

該当のツイートを、本当に文字通りの意味でしか捉えられないのであれば、コミュ力がまるで備わっていないと言わざるを得ない。逆に言えば、ひろゆき氏のツイートの意図を探り、それに対して反応するということは、コミュニケーションを会得している人にとっては、至極自然なことである。

前節で述べたように、「辞書的な意味に縛られて生きている」人に、コミュ力が備わっていないと考えると、なるほど合点がいく。会話の流れの中で相手の発言の意図がうまく汲み取れないから、言葉の辞書的な意味に固執して、発言を理解した気になってしまう、というのは「言い過ぎ」だろうか。


有事には「辞書的な意味」に縛られる連中には、コミュ力など必要ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?