「無知の知」と「無知の無知」

 「無知の知」は、そのわかりやすさゆえに、比較的に幅広い層でその概念が受入れられ、ネット上でもよく目にする言葉だ。私のこの言葉の認識としては、「私は何にも知らないが、知らないということはわかっている」という程度で、読者のみなさんも同じようなものではないだろうか。哲学ガチ勢から言わせてみれば、「理解が足りない!」ということになるかもしれない。ということで、本稿ではこの「無知の知」を自分なりに少し掘り下げてみることとする。文献にあたったりするのは面倒なので、以下に述べる内容は、あくまで私の脳内で考えたことにすぎない。


「無知の知」は「無知の無知」よりすごいのか?

 「無知の知」つまり「私は何にも知らないが、知らないということはわかっている」という状態と、「無知の無知」つまり「私は何も知らないし、知らないということもわかっていない」という状態、どちらがすぐれているだろう。
 まずは、「無知の無知」という状態の存在可能性から検討してみる。「(私は)知らないということもわかっていない」と自覚できる人間は、実は「(私は)知らないということはわかっている」と言えるのではないか。もっと言えば、「知らないということはわかっ」たうえでないと、「知らないということもわかっていない」とは自覚できないのではないか、ということである。
 ということは、「無知の知」という状態も「無知の無知」という状態も、ともに「知らないということはわかっている」ということになる。違いは、「無知の知」では「知らないということはわかっている」と断言しているのに対して、「無知の無知」では「知らないということも(わかっているが)わかっていない」としているところだ。要するに、「わかっている」ことを「わかっている」と捉えるか、「わかっている」ことを「わかっていない」と捉え直すか、という違いなのである。
 以上を踏まえると、私は、「無知の知」よりも「無知の無知」の方が、冷静かつ「知」に対して謙虚な姿勢であり、本質を捉えているのではないかと思う。しかし、ここで考えられる批判に、「知らないということはわかっている」という状態は、「知らないということもわかっていない」という状態に比べて絶対的に知識の総量が大きい、というものがある。


本当に「無知」を知ることはできるのか?

 ここまで、「無知」というものは「知る」ことができるという前提に立って論を進めてきた。ここからは、「無知の知」において「無知」を本当に知ることはできるのかという疑問の検討を通じて、「無知の無知」が本質を捉えているということを立証していきたい。
 「無知の知」という状態は、「知らないということ」を「わかって」しまっている。しかし、「無知の知」は、いわば「知らない」ということをヨシとしており、「無知」を「わかって」しまっていることと矛盾する。しかし、ソクラテスは偉大なので、この矛盾には自覚的であっただろう。とすれば、「無知の知」における「知」というものは存在しないという前提なのではないだろうか。つまり、「無知」を「知る」ことはできない、ということだ。
 「知らないということを知っている」という自覚は幻想なのである。「無知」の存在として生まれた我々は、「無知」として生きるしかない。「無知の無知」という態度で生きていく以外に選択肢はないのである。


すべての知識は麻薬でしかない

 そう考えると、何かを「知る」ということにもはや意味を見いだせなくなる。みなさんも、いま自身が知識として身につけていることをもう一度疑ってみてほしい。その知識は、生まれてから死ぬまでずっと無知である我々に、一時的な安心感を与えるための麻薬でしかないのだ。その語彙、意味、構造を得たところで私たちはそれらを「知った」ことにはならないのだ。私は、歴史や科学というものが嫌いだ。いかにも真実ぶった顔をして私たちの前に表れるが、それらは真実ではない。というより、私たちには真実であるかどうかもわからないのである。そういった意味で、知識は麻薬なのである。


時代は「無知の無知」だ

 以上に述べたことは、実生活に照らし合わせれば「言い過ぎ」である。歴史も科学もある程度信じていい。もっと日常的な知識だって腐るほどある。「無知の無知」を文字通りに解釈すれば、「私は知らないということを知らないということを知らないということを知らないということを知らないということを知らないということを………」となってしまう、もっとも、それゆえに私たちは生まれてから死ぬまでずっと構造的に無知であるということだが、何も知らないと思い込むと私たちは何もできなくなってしまう。ソクラテスの「無知の知」を現代風に解釈するなら、「考えることを怠らないようにしなさい」という程度のことだろう。「知った気」になると、私たちは考えるのをやめてしまう。考えるのをやめることは、危険である。神は全知全能であり、神以外の有象無象はみな無知無能だからだ。知識を得ることで安心するのではなく、むしろ知識をさらなる知への土台とする、そんな生き方をしていきたいと思う。

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