ジブンガタリドットコム「happyさん」
看護師歴30年、ケアマネ歴15年。
看護、人のサポートをすることが好きな私の原点を振り返る。
特別な場所、保健室。
小学校から高校まで、保健委員だった。
今振り返ると、保健室という空間が好きだった。
独特の消毒液の匂い。他の教室とは違う白い壁。
いつ行っても常にそこだけは時間がゆったりと流れている感じがした。
保健委員の私
当時、保健委員だった小学生の私は、保健の先生の補助をしていた。怪我をして保健室に来た子に薬を塗ったり、保健室の先生と話したりするのがとても楽しかった。
小学校の保健委員としての活動は、私にとって看護師になった原点になっているのだと思う。
記憶に強く残るのは高校の保健室の先生。
看護学校に行ってからも、高校の保健の先生と連絡を取り合っていた。もう何を話したか覚えてはいないけれど、すごく親身に話を聞いて全面的に私を受け入れてくれた存在だった。
ふくよかな感じで眼鏡をかけていて。
口調は早口で、言う時はズバッと毒舌感もあるような、切れ味鋭い感じではあったけれど、何を話してもどんと構えて受け止める存在。白衣を着て、優しく微笑む優しいイメージではなく、テキパキ動くどんと構えた先生だった。
今でも私は、何があっても動じないような、受け止めてくれる懐の深い人に安心感を抱く。
憧れの場所で働く看護師に
高校生の頃、友達が当時最先端の市民病院に入院した。
今振り返ると、その病院は高層で白い空間で、とても綺麗だった。私の好きな空間。友達のお見舞いの時に、看護師になりたいと感じた。
看護師の道へ
それまでも医療関係に進みたい、とぼんやり思っていたのだと思う。元々医療系のテレビも好きだった。当時の私は医療に携わる職種は医師・看護師くらいしか知らなかった。だから、「看護師になろう」と決めた。
病院附属の看護学校に3年通い、その病院で3年間働いた。全ての時間を100%自分のためだけに使い、仕事に遊びに、充実していた時代。
看護学校寮には門限があったが、大都市で20分に出られる場所だったから、街に出ては遊んでいた。
仕事と遊びにパワフルに活動したバブル時代
看護師になってからも、仕事・遊びにフルに活動。
16時まで働いて、そこから遊んだあと、また0時から8時まで働く、なんてことも。隙あらば遊びに出かけていた。医師も含めて時間があった人とご飯を食べにいったり、泊まりで遊んでテニスをしたり。
詳しくは語らないが、バブルの頃の遊びは派手だった、派手だったのだ。
そういえば、この頃エレクトーンを買った。小さい頃は団地住まいでピアノが置けず、習いたかったのだ。自分でエレクトーンを購入し、習いに行った。習い事を他にもいくつかしていたような記憶もある。
この頃、マドンナが来日。
コンサートに行って、その足で岡山へ旅行へ。周りもパワフルな人が多く、仕事の合間に遊び、遊びの合間に仕事をしていた。
健康相談室の看護師に
ある企業の健康相談室を立ち上げたいから、手伝ってくれないかと声をかけられた。結局そこで10年間働いた。
企業として初めての健康相談室。私も初めての健康相談室勤務。
医師はいない。どうしたらいいのか?
学生時代の保健室を思い出し、そのイメージで作り上げていった。
病院時代の濃い、充実した3年間の知識や経験が、ケアマネ・派遣看護師をするベースになっている。
看護師とケアマネージャーと
今はケアマネの仕事を中心に働いている。
融通のきく勤務時間で働き、ここ最近ではやりたいことに向けて仕事を調整した。
少し前はイベントの救護室での待機、コロナワクチン接種のお手伝い、保健所の相談もやったり。コロナ前には訪問健康相談で後期高齢者の自宅に行ったこともある。
ケアマネの仕事をスタートした時は、訪問看護ステーションで看護師として働きながら、並行していたが、今では派遣看護師のような単発での仕事とケアマネをしている。
縛られない働き方
私はもう10年以上勤務時間が固定されていない働き方をしている。今振り返ると、9-17時に固定された時間の勤務に疲れてしまったのだと思う。
子供が小さい頃、仕事を必死でやって保育園に迎えに行って、また次の日仕事で。そんな怒涛の毎日に疲れた。子供は大きくなってはいるが、一度縛られない働き方をすると、もう戻れない。
「時間に縛られる」「同じメンバーで」「同じ場所で」というのが自分に向いていなかったのかもしれない。
人と話すのは得意?実は、苦手かも
看護師の仕事は初めての人と会い、話を聞いてサポートする仕事。若い頃は得意だと思っていた。でも、最近になって得意でないと思う自分が顔を出す。
毎回、仕事に行くときに「さぁ行くぞ!!」と気合スイッチをONにする必要があった。「仕事だから」と自分に言い聞かせ、必死だった。
「人と会って話す」これを繰り返すと、夕方にはもう誰とも話したくない自分がいることに気が付く。私にとって必要以上に疲れることだったのかもしれない。
常にONのケアマネ
私の担当している方は25-6人。
自分である程度調整はきくものの、1日何人かの利用者さんと会い、話を聞く。何かあった時には、いつでもどこでも電話がかかってくる。
PCさえあれば、事務所でなくてもどこでも仕事はできるが、逆にずっと仕事モードから抜けられなくなってきた。家事やっていても、外にいても電話がかかってくる。
年齢を重ねて、常に仕事モードでいる事が大変に感じるようになってきた。
まちの保健室を作りたい
私はまちの保健室「ナースのホットサロン」を作りたい。
今までのケアマネの仕事を少し整理しつつ、2022年1月に個人事業主になった。
ナースのホットサロンでやりたいこと
今のケアマネの仕事ではできることが限られている。
本人や家族は希望があるにもかかわらず、介護保険の中でできること、が限られているから。
亡くなった後の家族ケア、グリーフケアも手薄だ。
「ちょっとお茶でも飲んで話したいわ〜!」と亡くなった方の家族に言われても、別の人のケアマネの仕事中で「ごめんね、ちょっと今は仕事で〜」と答えるしかなかった。
こんな人たち、介護保険とは違う、でもサポートを求めているような人の居場所を作りたい。
その場所では、私は看護師・ケアマネの経験があるから健康相談・介護相談も受けられる。介護保険とは別だから、元気な人のサポートもできる。
今の高齢者は元気な人もたくさんいる。料理、着付けなどの得意なことを教え合うような。いつまでも現役でいられるサポートしたい。
あそこに行けば活躍し、ほっとできる、楽しいというような居場所を作りたい。
地域のつながりの場として『いきいきサロン』『ふれあいサロン』などの名前で、高齢者が集まるものはある。でも、「あそこは行きにくいな〜」という人がいる。実際、ケアマネとして関わってきた人の中でも、少なからずいたのだ。
公民館や自治会館ではなく、カフェや雰囲気のいいところで、集まって、ホッとする場所を作りたい。
毎回場所も変えて、私が移動して出張サロンというような感じ。
自分もそろそろ定年が見えてくる。
昔は仕事のつながり、ママ友としてのつながりはあった。でも、それだけじゃない、大人のサードスペースを作りたい。
なぜこんなにまちの保健室にこだわるのだろう
自分でもなぜ、こんなにまちの保健室にこだわってるのか不思議に思うことがある。コロナ感染症が広がった3年前あたりから、働き方が変わり、強く思い始めた。
いざ、まちの保健室始動に向けて動き出すと、自分でも(あれ、なんでこんなに作りたい気持ちがあるんだろう。なんでこんなにこだわってるんだろう)と自分でもわからなくなった。
私の人生を振り返ると見えてくる。
ゆったりしたところ・安心できるところで私を受け止めてくれる存在がいた。そんな居場所を作りたいと思ったのだ。
2022年から23年にかけて、準備期間として色々な場所を巡った。
「血圧140ですね」「体重は56kgいいですね」「体脂肪は19%、もうちょっと頑張って食べましょう!」と数字を測って、健康相談を受ける場所が多かった。
私が求めているのはこれじゃない。
あそこに行って話をしよう、あそこに行ってゆったり過ごそうという場を作りたい。あくまでも話を聞いていて、必要な人だけに、一度病院いっといたら?介護保険でサービス利用したら?なんてアドバイスをしたい。
知り合いのカフェでナースのホットサロンを少しずつ始めていく。
まだまだ私の人生これから。
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ジブンガタリドットコム
企画・文責:みほいみ
インタビュアー:仙台りん
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