ジブンガタリドットコム「安子さん」

ひとりっ子の私に兄がいた

私は母のお腹で7ヶ月まで気づかれずに育った。
子供が生まれることは到底不可能だ、と医師に太鼓判を押されていた母に奇跡的に宿った命。それが、私。

父と母

父は大正1桁生まれ、母は昭和1桁生まれ。
母は美しく、一目惚れした父が横浜のダンスホールでバラ100本、「あなたと踊りたい」とナンパ。18歳差の付き合いが始まった。

昔のことだ。結婚したら女は夫の家へ入り、夫の母の世話もする。母は結婚したら父と暮らすものだと思っていたら、父の母(姑)もいたわけだ。姑はこの頃、朝の4時に起きて「お腹すいた」が始まる。父はといえば、土建屋、今でいう建築業界で働いていた。日本の復興時期で、黒部ダムの建設にも関わっていた。忙しい毎日で、夜の2時に帰宅してくる。それを母は待っている。

つまり、毎日2時間睡眠。

みるみるうちに30kg台まで痩せ細った母は、医師から「永久不妊症」という判を押された。
しかし、後継は欲しい。
そこで、出てきたのが前の奥さんとの子供。実は母は初婚、父はどうやら3回目の結婚。ひとりっ子だと思っていたが、自分は5人兄弟だということが分かったのだった。前の奥さんは姑とうまくいかなかったらしい。

前の奥さんとの間には3人の子供がいた。その真ん中の男の子が布団と共に、父と母の元へ送られてきた。

母にしてみれば、父と結婚したことによって、突然姑、10歳の子供との生活となったわけだ。

ところが、兄が来た翌年姑が亡くなった。
この頃、母は年に2回しか生理が来ていなかったほどにやせ細っていた。父親もさらに忙しく、たまにしか家に帰ってこない。

そんな中どうやら私は母のお腹に宿ったらしい。

やすこ、奇跡の誕生

ある夏の日。
「最近ママちゃんお腹出てきたんじゃない?」と、父。
「そうなのよ、最近ビールの飲みすぎかしら。ゴロゴロするのよー。」と、母。

医師から永久不妊症だと太鼓判を押されていたため、父も母もまさか子供がいるとは思っていなかった。結局、これは・・お腹の中で何か動いているぞと、産婦人科へ。
エコーがない時代。産婦人科医の触診によって、7ヶ月くらいじゃないか、という話になり、12月ごろに生まれるだろうと言われた。

母の実家からすると待望の初孫。
12月に入ってから、ソワソワ待っていた。しかし、12月が過ぎ、正月になっても生まれなかった。結局、1月の終わりに生まれたのだった。

寒い雪の日に、ついに出産の日がやってきた。
母は30kg台の体。母か子供、どっちが死んでも仕方がないと言われて始まった分娩になった。イチカバチか、鉗子分娩で生まれたのが私。
鉗子が眼球に当たったためか、半年眼球が青かったそうだ。生まれつき、右目が見えない。母はといえば、出産後体調を崩し、2年入院した。

ただ幸いにもその頃、父の事業はうまくいっており、家は裕福だった。私は乳母と家政婦に3歳まで育てられたのだ。元々家にいた兄は13違いだった。

裕福な子供時代

父親の会社はうまくいき、霞ヶ関に36階建てビルが立っていた。29階に自分の部屋があったほど。小さい頃はフリフリの衣装を着せられて、着物を着付けた若く、美しい母と連れ回された。

3歳の時、銀座の高級クラブデビュー。全寮制で大卒の女の子しか採らないような、政治家を相手にするような高級クラブ。今でもはっきり雰囲気を覚えている。楽団の指揮者が父の友人だったからか、父の一声で「どんぐりころころ」「こんにちは赤ちゃん」を高級クラブで歌った。

父の口癖は「これからの女性は島国にいたらだめだ」「日本の女性はもっと堂々と、世界をわたっていかないとダメだ」。娘の私には色々な経験をさせたいと思っていたようだった。

家族麻雀もその1つだった。
正月、お年玉をかけて本気で賭け麻雀をする。家族だろうと子供だろうと容赦はしない。私がどんなに泣こうと、本気の麻雀だった。いつも庇ってくれたのが13個上の兄だった。

父は私立中学に行かせたかったようだが、車酔いはするし友達とも別れたくなかった私は願書を破り捨てた。結局、小学校・中学校ともに地元の近くの学校へ通った。

中学1年の時、父に「安子、ハワイに行きたいか?」と聞かれた私は「うん」と答えた。1ドル360円の時代。次の日曜日に父に連れられて、なぜか説明会へ。そこは2週間の短期留学の説明会だった。100人ほどの同世代の男女が集められ、ハワイや語学留学に熱を帯びた雰囲気。いつの間にか、年末年始ハワイで短期留学することになっていた。

父は私に、高校からはピアノの勉強のためドイツへ行かそうと考えていた。世界を見据え、さまざまな体験をさせようという父。それなりの反抗期を迎えていた私はもちろん、その気にはなれない。ユーミンにハマってクラシックピアノから弾き語りをしたいな、なんて思っていた頃だったのだ。

そんな豪快とも言える父が「ちょっと行ってくる」と病院に検査に行ったところ、がんであることが判明。手術になったものの、お腹を開けてみると食道がん・胃がんで転移もあり、がんをとることはできず、手術で治療はできなかった。1ヶ月で10kgほど痩せて、中学3年の9月の終わりに亡くなった。

突然生活が変わった青春時代

父の葬式は無宗教だったが、ピアニカで讃美歌を歌った。今となっては覚えていないが、父の希望だったのかもしれない。父のお墓に縋り付いて「パパー!」「お父様ー!」と泣き叫ぶ女性が2人。誰?と横目に見つつ、(きっとあの人たちが中学1年の時に聞いていた、兄の姉と妹なんだ)と理解した。

父と母は18歳差だったから、父親の一番下の兄弟よりさらに母は年下なわけだ。とても気まずそうにしている母を覚えている。それ以降、父親の親戚とは付き合いはなかった。

中学3年生の9月の終わりに父親が亡くなり、突然生活が変わった。父はまさか自分が死ぬなんて思っていないから、私をドイツに行かせようとしていたし、母には赤坂で小料理屋をさせようと準備していた。土地も準備していたし、母も調理師免許をとって準備をしていた。しかし、父は亡くなったのだ。

私の受験はボロボロだった。父親がドイツならここ、日本ならここ、と行かせようと思っていた学校は両親が揃っていないといけないような学校だった。10月の初めに高校受験のために3者面談が行われた。3者面談で、先生もぽろっと「ここは両親が揃っていない難しいな」とこぼす。母は「先月まで生きてたんですよ。」と珍しく先生に食ってかかった。母を取りなすように、行きたい高校が変わったから、また三者面談を設定してくださいとお願いした。

珍しく取り乱す母の姿を見て、この人を支えなきゃと思うようになった。自分が本当にやりたいことはなんなのか。本当はDJをやりたかった。日大の放送学科にしようか、どこにしようか。と考えていた。

高校受験の時にも両親が揃っていないことを聞かれた。
入試の面談で、先生が「授業料はどうするんですか」と。履歴書には父の名前はない。父がどういう経緯でいないのかは分からない。この時代は父親がいて、稼ぎがあって、高校に通うことができるのが普通の時代。「年の離れた兄がすでに独立しているため、援助してもらいます。」と答えた15歳。

「世の中」「人の目」というものを初めて痛烈に感じた出来事だった。

母を支えると決めた高校時代

私立の女子校に通うことになったが、同じ中学からの友達は誰1人いなかった。
高校生活が今から始まると言った矢先、4月15日に母が倒れた。父と同じように胃の調子が悪いと病院へ。(これで私は両親がいなくなるんだ)と感じざるを得なかった。母はこの頃さらに痩せ細り、10円はげもできるほどで、ストレスが溜まっていたのだと思う。結局は胃潰瘍で手術をして3ヶ月ほど入院になった。

自分で弁当を作って、週に何回かは病院へ。一軒家の鍵を自分で閉めて出ていく日々。高校1年の春はなかなかに辛かった。

退院した母はデパートのレストラン街で仕事復帰。調理師免許も持っていて、まだ何かやりたいと思ったのだと思う。母は42歳で未亡人。見目も麗しい。周りの男性が放ってはおかない。母より13歳上の男性が、時々酔っ払った母を送ってくるようになった。そのうち、空き部屋に泊まるように。

ある時、その彼氏もどきと兄が鉢合わせ。兄は、父と同じように建設関係の仕事につき、月1回程度ではあったものの家に帰ってきてくれる優しい人だった。しかし、その兄が怒り狂い、包丁を持ち出す事件になった。

10代の多感な時期。
色々あったが、母親とは離れないほうがいい、と考えるように。
母親も1人の女性で心の支えが必要なんだ、と感じたのだ。彼氏もどきにとっては母の代わりはきっといる。だから、私は母にとって唯一の娘であり、支えなくちゃと。

母の兄弟からは、私を気に入ってくれて養子縁組の話も出ていた。だが、それを断り母と生きていくことを選んだ。気づけば、13個上の兄は籍を抜いていた。

そこからは、それなりに高校生活を楽しんだと思う。しかし、1年のうち10日くらい体中、顔にも発疹が出て、学校に行けないほどだった。今考えると、それなりには楽しいと思っていた高校生活だが、ストレスがかかっていたに違いない。

間貸しのお兄さん

一軒家の中で2階に間貸ししていたお兄さんがいた。大抵の場合、地方から出てきた浪人生〜大学生。18歳前後のお兄さん。話を聞いてくれたり、勉強を見てくれたり。大家の娘である私の方からは、お兄さんの部屋を訪れることができたが、向こうからは鍵がかかっていて入ってこれないようになっていた。

一軒家の中で、2階に人がいる、灯りが灯っているというのは、完全な孤独にならない。精神的な支えになってくれていたと思う。実は、大人になって以降、今でも付き合いのある人となった。

間貸しのお兄さんが大学生になり、一緒にバンドをやらないかと誘われた。そこで後に夫となる男性と出会った。

子供時代から学んだこと

父の突然の死で私は人生いつ何があるかはわからないと、深く心に刻まれた。「自分の名前でできる仕事をしよう、ずっと仕事をしよう」と思った。

母はといえば人生の波を、なんとか踏ん張った母だった。気丈に振る舞う母は、『東京だよおっかさん』を聞いて、ボロボロ泣きながら掃除機をかけていた。 1人の女性であり、娘を育てるべく働いて男性の役割もしようと、最後まで踏ん張った母だった。



▼安子さんのstand FM
つぶ安 心のチューニング


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