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あらゆる子どもの問題に繋がる

子どもの頃から、とてもつらい毎日を送ってきた人は、これ以上苦しみたくないから、誰にも見つからない場所で休みたいと思います。

外の世界は危険なので、誰にも見つからない場所に隠れて、自分の中を深く掘り下げていき、その中に閉じこもることで、精神の崩壊を防ごうとします。トラウマケア専門『こころのえ』相談室
@e98SnMZJchhlqjtより

アカ主の公認心理師さんが、Twitterで定期的に呟いて下さっています。
共感する内容や、自らを見つめ直すきっかけになったり、様々な気付きの扉を開かせてくれる言葉が沢山あります。

その中で、私の専門分野にも大きく関係があると感じたものを一つ冒頭に掲載させていただきましました。

今回は、自分を保つために一生懸命な子どもの姿をいくつか紹介したいと思います。

ハリネズミ

前に紹介した、Aちゃんのお話です。
実はお母さん、叱り付ける時結構手が出ていました。

まぁ、私も子どもの親なので気持ちはよくわかりますが、『子どもの脳を傷つける親たち』の中で、著者の友田先生も自らの反省を振り返ってらっしゃいました。

Aちゃんは『親が言うことをきかない自分を叩いているのだから、言うことを聞かない相手には暴力をふるっても良いのだ』と、誤学習してしまっているわけです。

そして、あらゆる外敵から身を守るため、心身共に触れてくる相手にはハリネズミのようにトゲで先手を打つということになります。

Aちゃんへの叱責もかなり荒っぽい暴言と態度が出ていたので、外部の人間のいない家庭ではもっと乱暴な叱り方をしていることは想像できます。

どうやらこれまでのやりとりの甲斐があったのか、放デイに通うことになったようですが、行政や関係機関の斡旋によるペアレントトレーニングも同時に出来ると、虐待予防などに繋がると思うのですが、ここまで考えるのは余計なお節介なのでしょうか。

クラインの壺

日常的に辛い思いをしてきたケース以外でも、単発の大ダメージから、自分の殻に閉じ籠ることもよくあります。

ただ、悩みどころなのが、個々に比較対象がないことが多いので、辛い思いをするのが日常な場合、それすらも気付けていないことが多いのではないかということです。

実際、私も何故虐待されていた記憶もないのに人格分かれてんだ?と理解出来ずにいました。

詳細はこちらの二つをご参照下さい。


自らの普通が、他の人の普通と全く違っても、ほとんどの人はその事自体に気付けていないのではないか。

そんなことを考えるようになったのは、わりと最近の話です。

中学の頃、クラスメイトの一人が「あんたら」という人称を使って周囲の同級生を批判してきたことがありました。

ずっと違和感があって、大人になっても記憶に残っている、納得できずにいる言葉です。

どうして引っ掛かっていたのかというと、他の同級生と、人括りにされたと感じたからです。

考え方も違うし、意見も好みも違うのに、彼も、自分と自分以外の奴という二極で捉えていたということです。

固有名詞以外のあらゆる名詞が、個性を無視しているように感じてきます。

心の根底に強い不信があると、別に意図は無いのに全てが自分を傷付ける敵となるわけです。

さて、今自分はクラインの壺の中にいるのか、外にいるのか。

まだもう少し、思考を整理する必要がありそうなので、少し角度を変えて、また書きたいと思います。

クラインの壺とは、メビウスの輪の立体バージョンです。詳しくは、以外を参照下さい。

昔、同名のドラマを見たことを思い出しましたので、原作小説をついでに紹介します。

当時画期的な発想だった、VRやARの技術が現実となってきている現在ですが、この物語、現実になりそうな気がしています。


誰かの心にほんの少しでも風を送れるものが発信出来るよう自己研鑽していきます。 当面はきっと生活費の一部となりますが、いつか芽が出て膨らんで、きっと花を咲かせます。