障害者表現者と配慮の話。

昨日の「へんしんっ!」と言う映画を観ました。
ざっくりと映画の内容を言いますと、身体障害のある大学生の監督が「しょうがい者の表現活動の可能性」(パンフレット原文より)を探ろと取材を始めたドキュメンタリー映画です。(ちなみに仮面ライダーみたいな変身はなかった。)

どこまでが「配慮」なのか?

一番印象に残ったのが全盲の俳優さんのお話で「見えないからと言って「テレビの話をしない」などの対応は正直"ウザい"」とのこと。

その方は「見る」事は出来ないけど「観る」事は出来る。
音や気配、空気などで感じる事が出来ると言われていてなるほどなーと思いました。

全盲の方に例えば「美術館に行こう」と言うのは失礼な事なのでしょうか?。
障害当事者に聞く事もなく勝手な想像で「これはダメ」と線を引く事が「配慮」なのでしょうか?。

これは非常に難しいと思います。
何故なら私も日常的にやってしまっていることです。
親しい間柄で障害の有無関係なく、「この人はこうだから○○はやらないよね。」と考えるのは配慮や優しさなのかなと考えさせられます。

「知る」大切さ

やっぱり一方的な配慮はただのおせっかいでしかないと思います。
全盲の方に道を聞かれていきなり白杖を触ったりするのは「眼球を握っている様なもの」と言う表現が映画の中でありました。

私も無知でしたが、自分に置き換えて考えてみたら道を聞いていきらなり手を捕まれてグイグイつれ回されてる様な物ですもんね。そりゃ不安だわ。

この様に自分に置き換えたりして考えられる様になったのは昨日映画を観て「知った」からなんだと思います。

「障害」か「違い」か。

この映画には字幕と共に音声ガイドがついていました。
この上映方法を「バリアフリー上映」と言わず「オープン上映」と名付けたのがアイデアだなーと思いました。
バリアフリーって言うと「あぁ、福祉的なやつね…」ってなってしまうけど「オープン上映」と言い方一つで世界は変わりますね。

音声ガイドを聞いていて面白かったのは「花柄の服を着たふくよかな女性」といガイドがあって私がこのガイドにかけられると「髪がピンク色のふくよかな女性」と言われるのかな?と思いちょっと痩せようと思いました。

英語に字幕がつくように、こういったオープン上映もありだと思います。
英語に字幕がつくのは「言葉の違い」であり「英語できない障害」とは言われません。
それと同じようにオープン上映が一般的になればガチガチな「障害」と言うのが「違い」にまで垣根が薄くなるかもしれません。

配慮とは対話で作る物

監督が「映画を一方的に指示してつくる暴君にはなりたくない。」と言っていて、何となく「わかるわー」と思いました。
と言うのも障害者にもタイプがいまして、「やってもらうのに感謝している。と同時に申し訳ない。」タイプと「やってもらうのは基本的人権なのでもっと高みを目指せ」タイプの障害者。
前者は物事において遠慮してしまう事があり、相手の顔色を伺って「どこまでお願いできるんだろう」と思ってしまいます。
私もどちらかと言うとそのタイプなので、暴君にはなりたくない、あるいはなれないのです。
でも本表現活動としてはそこで妥協はしたくない。
だけど申し訳ない!。みたいな葛藤するシーンもあって、指示を受けるカメラマン、音声マンもその点を探りながら、でも自分の作品になってしまわないか?の葛藤を繰り返すシーンも印象的でした。

そこの表現を支えるのはやっぱり一方的な配慮よりも当事者との対話なんだなと。

配慮はありがたい。でも一方的な配慮になっていないか対話もするのがお互いへの配慮。

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