中村倫也は幸せになれない__中村倫也のただのファンが映画『水曜日が消えた』のとある台詞で救われた話

※以下の文章には、中村倫也さんが出演した複数の作品に関する結末を含む多大なネタバレが記されております。『水曜日が消えた』以外の作品名は出さずぼかして書いてはいますが、中には推察できてしまう場合もあるかと思います。それでも構わない、と言う方のみお読みください。




 俳優・中村倫也。彼の演じる役柄は、「不幸」なそれが圧倒的に多かった。それは俳優として、最初から華々しい道をたどっていたとは決して言えないような不遇の時代を持つ中村倫也の人生をも反映されている様に見えて、彼の作品や経歴を追っている一人のファンとしては、直視することは少し(中村倫也さん本人がどう思っているのかは別として)怖かった。
 例えば、時を超えて恨み続けた相手に殺される。犯罪者の息子として生き続ける運命を背負わされることは一度ならず。恋をした相手を他人に譲って自分は身を引き、又或いは想い人から直接拒絶され一人になる。妹が自殺する。嫁に浮気される。無惨に喰い殺される。エトセトラエトセトラエトセトラ。彼の背負う彼であり彼ではない多くの人生には、そうした不幸が多く付き纏う。
 そこに来て今回の『水曜日が消えた』の役どころである。曜日ごとに入れ替わる七人の僕。交通事故のショックをきっかけに人格が分裂した彼ら。「毎日言ってる事違うから碌に友達もできない」そう自嘲気味にこぼす彼らの内の一人が、予告映像の中で酷く悲しそうに私の目に映った。主演という大役ではあるが、やはりここでも中村倫也は不幸なのか。そう心の中で少し呟いたのは予告編が公開されて間もない、昨年の初夏だった。
 得てして悲劇というものは、人の心を惹きつけやすいものなのかもしれない。古典ギリシアの演芸場で盛んに行われた演劇の戯曲作家も、世界史の教科書に載るほどの人物は悲劇作家が三人であるのに対し、喜劇作家は一人だ。シェイクスピアが残した約40の戯曲の中で、実は悲劇の数の方が喜劇よりも少ないのだが、『四大悲劇』と呼ばれるくくりはあってもその逆『四大喜劇』は存在しないし、その事実を知らない人は多い。我々が虚構に、フィクションである物語になぜ悲しいストーリーを望むのか、それを話すのはもう少し時間と根気がいるので今回は割愛するが、ここから判るのは、俳優という職業は悲劇を沢山背負う宿命を持つと言っても過言ではないだろう、ということであり、中村倫也もその例外ではないのだ。
 多くの苦悩を背負う彼の役柄の数々が、彼の俳優として苦労を重ねる姿と重ねて見えてしまっていたのだ。そして、身勝手に、本当に身勝手に、彼は不幸なんだと思っていた。
しかし、先日公開された中村倫也主演の映画「水曜日が消えた」で、このような台詞があった。
「それに、僕たちがずっと不幸だったと思ってるんだったら、それは少し違う。この身体は……不便だよ。確かに。でも、不幸だったわけじゃない。うん。本当に。」
 物語終盤の、主人公のうちの人格の一人の独白である。この台詞で、私は何故か救われたような気持ちになった。端から見たら意味が解らないだろう。私は中村倫也の事を彼のこれまでの沢山の台詞から勝手に不幸だと思って、その結果中村倫也の新たな台詞に救われている。こんな無意味なことはない。しかし、救われたとしか表現しようのない感情が、そこにはあったのだ。交通事故に遭い、人格が分裂して、一週間に一度しか目覚めることのない、悲劇のストーリーに身を置いた彼は、不幸では無かった。そう断言した。その事実がどれだけ心強いだろうか。
私はもう、中村倫也を不幸だとは思わない。

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