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歴史探究-1・アヘン戦争

これは YouTube (https://youtu.be/8yWsiN62Z_o)と連動した記事です。

 第一回目はアヘン戦争です。近現代史の初めとしてこの戦争にしました。
 詳しい史料の出典や文字記録をここで書いて、確認してください。YouTube の歴史動画は、一般に教室で授業をしている先生のように、写真や絵を見せながら板書して、話す、というかたちをとっています。たいてい、それはすでに分かっていることを断言調に説明していますが、わたしの YouTube は歴史上の人物に登場してもらい、かれら・彼女ら自身に語ってもらうスタイルにしました。またわたし大上の方からもいろいろな問いかけをします。その問について考えてもらうことにしました。その語り、その問いを聞いて、視聴者に判断してもらう、というスタイルです。
 歴史上の人物や史料に語ってもらい、それに対し他の人物とわたしが批判・反論をします。それをどう思うかも、あなたの課題です。
 歴史は過去との対話です。これを実践するのが、この「歴史探究」のスタイルです。
………………………………………

1 謝罪すべきか?


問 戦争を強行してまでアヘンを売りつけたイギリスは、国家として中国に謝罪すべきですか?


(1) 謝罪する必要はない。当時の中国人はもう生きていないので、謝罪に意味はないから。それに国家無答責の法理がある。

(2) 謝罪すべきです。アヘンという毒を売ることでイギリスの富は築かれ、その富が「大英帝国」を支えており、その上に、今のイギリスがあるのですから。

 どちらの解答を自分の解答とするか、これから現れる内容から、決めてください。

2 なぜアヘンなのか?


18〜19世紀英中の経済関係

 イギリスは中国茶を買いたいが、中国は産業革命で大量生産できた機械綿布を買ってくれないため、赤字がつづいていました。

 ポイントは図の右側。中国には、安くて強い南京木綿(nankeen)という中国産の綿布はすでにあり、舶来品を買うメリットはなかったのです。それでイギリスはインド産アヘンを密輸することで銀を得、その銀で茶を買うことで黒字に転換できました。

 清朝政府はなんどもアヘン密輸・所持の禁令を出しました。これは嘉慶帝(1796〜1820)の1796年、1810年、1831年、1834年と出し、道光帝(1820〜50)は、1838年に雲南省のケシ(アヘンの原料)栽培の禁止、1838年に林則徐(1785〜1850)を欽差大臣(一時的な問題のために派遣する大臣)に任命して対処させました。

★(アヘン禁令の清末の年表)
嘉慶帝
1796〜1804/05 白蓮教徒の乱
1796 アヘン輸入の禁
1810 アヘンの北京に入るを禁ず
1822 海口各関津に命じて、アヘン不法所持を取締る
1823 朱察阿片煙条例。ケシの栽培とアヘン製造の禁。
1831 アヘン輸入の厳禁
1832 禁阿片章程を査定
1834 イギリス使節ネーピア、広東に来る。
 イギリス船、零丁洋・大嶼山に碇泊してアヘンを密売す、広東市に命じてこれを禁ず
道光帝
1837 林則徐、湖広総督となる。イギリス人、アヘン3万4000函(かん、はこ)をもたらす
1838 雲南のケシ栽培を禁ず。欽差大臣・林則徐を広東に派遣
1839 林則徐、アヘン2万余函を没収廃棄。イギリス人、広東を侵す
1840〜42 アヘン戦争

3 アヘン流入と銀流出

アヘン密輸基地

 これは広東市の南に位置する島々の図です。黒い島がアヘンの倉庫がつくられたところです。

アヘン密輸の推移

 この図(加藤祐三『イギリスとアジア』岩波新書、p.136、赤色はわたしが付けました)は、どれくらいのアヘンがインドから中国に輸出されたかのグラフです。一番多いときは1883年頃に1000万ポンド分で、1000万ポンドは現在のお金にして、当時の1ポンドが現在は5万円くらいになるので、500億円になります。
 中国商人も禁令を犯したり、役人も賄賂を取って密売を黙認・支援したりしていました。中国人のからだと心をむしばみ始めます。推測される中毒患者は第一次アヘン戦争の頃の1200万人から、1880年代には4000万人に増加しました。銀流出で中国経済も崩壊しはじめます。

4 東インド会社


 アヘン密売をおこなっていたイギリスの東インド会社は大きな利益を上げましたが、この連合会社の一つが、ジャーディン・マセソン社です。1832年、英国東インド会社船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、広州で設立された会社です。日本とのかかわりでいえば、1858年、横浜に支店を設立し、1861年、グラバーがこの会社の長崎代理店「グラバー商会」を設立します。グラバーは、坂本龍馬と取引きがあり、三菱財閥の岩崎家を支援し、キリンビール・長崎造船所を作っています。
 1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」勲章を明治天皇から授けられています。

 写真は、ジャーディン・マセソン社が経営する香港の「マンダリン・オリエンタルホテル」
 14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを基盤に世界最大級の貿易商社である。
関連企業 
 ケンタッキーフライドチキン
 セブンイレブン香港
 イケア台湾
 スターバックス香港

5 林則徐の対応

(1)ヴィクトリア女王に林則徐が手紙を出しました。
 貴国との貿易は200年にもなります。今、貴国が繁栄にいたった理由はわが国との貿易に一因はあるでしょう。ところが近年、アヘンを搬入して中華の民を惑わし、諸省に害毒を流す者が現われるにいたりました。かくのごとき己れの利をのみ求めて他人の害を顧みぬ所業は、天理の許さざるところです。毒物によって華民を害するとは、その道理はいずこにあるのでしょう。貴国はわが領内の商品を搬出して、みずからの食用、使用に供するだけでなく、諸外国に売りさばいて三倍の利益を収めておられます。 たといアヘンを売らずとも、この三倍の利益は保証されています。平然と人を害するものまで売りさばいて、あくことなく利益を貪る必要がどこにありましょう。他国の人が英国に来て貿易するときは、英国の法制に従わねばならぬと同様で、いわんやわが国においてはもとよりのことです。貴国の商人が、末長く貿易を望むならば、かならず法典を順守しなければなりません。アヘンの来源を永久に断ち、ゆめゆめ法を試すことをしてはなりません。この文を受領ののち、アヘン根絶のための措置について、遅滞なく、すみやかに返書をいただきたい。(出典・西順蔵編『原典中国近代思想史1』岩波書店 p.85〜91)
(2)洋上の船に貯蔵しているアヘンを三日以内にすべて提出すること。
(3)今後永久にアヘンを中国に持ち込まず、もし持ち込みが判明したら、アヘンは没収され、違反者は死刑に処せられても異存はないという誓約書を、中国文と外国文で二通提出することです。
 これをイギリス側は拒絶しました。
(4)貿易を停止、外国商人の拠点である夷館区域内で働いていた中国人800人を引き揚げさせる。350人の外国人(うちイギリス人は200人)は、以後47日間にわたって夷館区域内に閉じ込める。これを英国側は同意します。
(5)しかし密貿易をする船からアヘン2万箱没収・消却します。その直後にイギリス艦から発砲され、戦争が始まります。

6 英国議会の対立

●パーマストン外相(55歳)の演説
 アヘンの貿易を厳禁し、わたしたちの財産を奪い、商人に厳罰を課すというのは、国際的な自由貿易のルールに反します。これまでイギリスの商人は、中国政府によって多大な侮辱や傷害をこうむっています。アヘンは合法的な商品です。アヘンをイギリスが持ち込まなくても、ペルシアかトルコがイギリスに代わって中国に売りに行きます。
 中国人はアヘンを欲しているのです。必要なものを提供するのが商業というものです。この商業に中国人たちも協力しています。今の中国政府がけしからんのです。この遠征の目的は戦争を起すことでなく、威嚇することで林則徐が公平な貿易政策に転換するよう促すことにあります。消極的な中国側の外交関係・貿易政策を転換させようではありませんか? 自由貿易の実現です。

○グラッドストン議員(30歳)の演説
 中国政府は、密輸入をやめるように通告してきました。彼らは、この悪名高く残虐な貿易を禁止しているという理由で、英国船を海岸から追い出す権利が彼等にあります。私の考えでは,正義は彼ら中国人の側にあります。異教徒であり,半文明化した野蛮人が彼らの側にいる一方で,賢明で文明的なキリスト教徒である私たちは,正義とも宗教とも異なる目的を追求しています。
 その理由においてこれほど不正な戦争,その進行においてこの国を永久に不名誉で覆うよう計算された戦争を私は知りません。読んだこともない。英国政府も中国政府とともにアヘン貿易を停止させるためにあらゆる努力をすべきです。外相の辞任を求めます。英国の旗は悪名高い密輸品を守るために掲げられています。

表決の結果、艦隊派遣の賛成は271、反対は262の9票差でした。533議員のうち5人が反対に回れば、引っ繰り返るくらいの僅差でした。
 わずか9票差という場合の反対の多さにわたしは注目します。
 この討議の史料は「名古屋外国語大学論集 第10号 2022年2月 The Rhetoric of Moral Justice and Political Expediency: William Ewart Gladstone vs. Viscount Palmerston in British Parliamentary Debates on The First Opium War」から抜粋したものです。

7 アヘンに関する誤説

アヘンはイギリスで禁止されていましたか?
 『近代イギリスの社会と文化』(村岡健次、ミネルヴァ書房、2002年)には、「アヘンの使用は、イギリス国内においては、1868年の薬事法(PharmacyAct)の成立までは100%、それ以後の19世紀においても事実上はほとんどまったく、野放しの状態であった」(p265~p266)と。
 『アヘンとイギリス帝国国際規制の高まり 1906〜43年』(後藤春美、山川出版社、2005年)にも「アヘンを過剰に摂取すれば中毒にという害があることは知られていたが、それほど大きな問題とは考えられていなかった」と書いてあります(p.5)。
 また、アヘン流行の原因を、新村容子著『アヘン戦争の起源―黄爵滋と彼のネットワーク』汲古書院では、「16〜19世紀の中国社会はアヘンを必要とする社会であった」として「清代の中国は、人々に緊張を強いる社会であった。人々は緊張からの慰めをアヘンに求めた」とし、この緊張原因として水害・飢饉・旱害などを挙げています。実におおざっぱな説明(p.5〜8)ですが、緊張のない社会ってあるのでしょうか? 中国で災害の酷い時代の記録としては後漢末が知られていますが、その時期にはアヘン流行は知られていません。
 また、19世紀にアヘン中毒者が増えた原因にもなっていません。

 前記二冊の本はまちがいです。見てきたように、議会で反対票が半分近くあり、イギリス国内でもアヘンに対する嫌悪感があったことを示しています。
 また、次のような事例があります。
 (1) 18世紀の中頃、インドに派遣されたクライヴはロンドンの取締役会に報告しています。「怠惰で無能になり、アヘンで人格が変わってしまった……自分が王位に就けてやった男は、いまでは傲慢で強欲で暴力的になり……そんな行動のせいで人心は離れてしまった」と。(『略奪の帝国・東インド会社の興亡』上、p.216)

 (2) イギリスにおけるアヘン貿易反対運動は、19世紀前半非国教徒の主導のもとに始まりました。アヘン戦争当時、彼らはアヘン密貿易に反対する署名の提出などで、下院でアヘン貿易反対の討議を実現させました。→https://www.aplink.co.jp/synapse/4-901481-47-9.htm

 (3) 「野放し」ではなく、印紙法(Stamp Act)が1783年、1802〜1815年に発行され、公認医師・薬局を規制し、医薬品の品質を確保するための税制をしいています。その上で、悪質・有害な薬を廃棄したり、免許を受けた医師が処方した薬の調合を拒否したり、忠実に配合しなかった薬局への制裁を定めていました。

 (4) グラッドストンは病弱で反抗心の強い妹ヘレンがアヘン中毒であったため、政治生命も危ぶまれるほどに悩まされました。かれがアヘンを危険視したのは身内にアヘン被害者がいたからでした。
https://iow-chs.org/island-people/helen-jane-gladstone-1814-80/

8 イギリスの戦艦

 18世紀末のマカートニーが乗っていたライオン号(1793年)と、アヘン戦争(1840年)のときの船(メネシス号)との違いはどこにありますか?
 
 答 帆船(はんせん)と蒸気船のちがい。
 問 では蒸気船に帆(ほ)が付いているのはなぜ?
 答 まだ燃やす石炭の量では航続距離が限られていて、石炭だけでは望む航海ができなかったから。汽帆船(蒸気+帆)の段階です。完全な汽船になっていない時代の船です。

どこから英国船は広東にむけて出港したか?
 次の港名はみなイギリスの植民地にある港です。どこから出港したでしょうか?
 ロンドン、ケープ、カルカッタ、マドラス、セイロン、シンガポール、この全部からでした。 

 正解 全部

9 中国の対策

 対抗する中国は次のうち採らなかった対抗方法はどれか?
 
 ① 火矢を英国艦隊にたくさん放射した。
 ② 猿の尻尾に爆竹をつけて英艦に放ち、この火が艦隊の爆薬に火がつくのをねらった。
 ③ 女性の尿のつまった樽をつくり、蓋を開けて匂いが英艦に向くようにした。
正解 ①

 なんか馬鹿馬鹿しい対応と思えますが、
①届かないので、やれませんでした。大砲を清朝は持っていたが、それはポルトガル砲といい、1600年頃のものだった。イギリス兵はこれを発見して呆れ返った。西欧諸国は16〜19世紀の間、絶えず戦争をしてきたので武器の改良も進み、砲身も上下左右に動かせたが、ポルトガル砲は石に穴をくり貫いて砲身を突っ込むかたちしかとれず、この砲身の先に敵船が近づかない限り発砲できなかった。
②20匹の猿を集めて爆竹をしっぽに付けて英艦に飛ばす、という方法で、実際に猿を集めました。しかしどうしたら英艦に届かすことができるかの方法が見つからず、猿を使うことはできませんでした。餓死させました。
③これは古代からある戦争時の方法で、やってますが効果は分かりません。
 しかしこれを馬鹿にするひとは、日本も機関銃をもつ米軍に対して竹槍で戦う訓練していたことを知っていますか?
 驚くべき訓練が他にありました。
 「校庭に四つん這いになって並ばされ、お尻を高くして山形になるように指導された。何のためかと思いきや、アメリカ軍が毒ガスを撒いたときに、吸い込んでしまった毒ガスをお尻からオナラにして出すようにという訓練だった」(佐々木陽子『戦時下女学生の軍事教練』(p.21、青弓社)

戦時下女学生の軍事教練

10 戦場のすがた

 オランダ風説書は戦争の一場面をつぎのように書いています。
 今や避けられなくなった戦闘は、すぐに全面的なものとなり、1時間後には中国側の完敗で収束した。3隻のジャンク船が沈められ、1隻は空中に吹き飛ばされ、そのほか何隻かは、手の施しようのない状態となった。泳いで一命を取り留めようとした船員は〔ジャンク船を〕放棄し、岸に向かった。完膚なきまでに砲撃を受けたジャンク船の中には、(中国の〕提督の船もあり、そのため提督は重傷を負って、別のジャンク船に乗り移らねばならなかった。イギリス人は、ほとんど大した被害も受けず、わずか1人の負傷者を出しただけであった。一方、中国側の兵の損害は400ないし500人と推定される。
(松方冬子『別段風説書が語る19世紀』東京大学出版会、p.52)

 砲台を占拠したイギリス兵は各地に侵入し、女性たちを凌辱した。強かんされて死んだ者及び拉致された者あわせ百数十人になる。財物を奪い、住民に運搬させ、抵抗する者は殺された。女性の纒足の靴を持って行って得意になる者もいた(西田千津著「アヘン戦争下の女性」『中国女性史研究 24』2015年12月)

11 福沢諭吉の林則徐観

原文
 「道理づくで談判せば、英吉利にても他国の害になることを構ひ付けぬ理屈はなし、……林則徐と云ふ智慧なしの短気者が出て自分の国中に法度を出すことは先づさて置き、もうすも言はず英吉利より積渡りたる阿片を理不尽に焼捨て、……果ては師(いくさ)となり散々痛め付られたり。今日に至るまで世界中に英吉利を咎むる者はなくして唯唐人を笑ふ許(ばか)りなり。……自業自得」(福沢諭吉全集 第2巻 p.546)

反論
 イギリスびいきの福沢には倫理観が欠如していてイギリスのやることは何でも良いことととっています。
 福沢に反論します。
 ① 「焼捨て」てはいない。アヘン「焼却」は今も誤解がいろいろな本に書いてありますが、ちがいます。大きな処分池を堀り、そこにアヘンを入れ、さらに石灰を投入して効力をなくし海に流したのが史実。
 ② 林はなんども妥協案を出して貿易再開を談判しましたが、イギリスは攻撃してきました。中国の条件を受け入れたアメリカ・フランスは戦争中も貿易をつづけることができました。
 ③ 清朝政府は林を左遷し、琦善(キシャン)に代えて穏健な交渉をしたが、イギリス軍の攻撃はつづきました。これはイギリス首席貿易監督官のエリオットに代わったポッティンジャーになっても変わらず、停戦・和約をしても攻撃しつづけたイギリス側に責任があるのは明白です。林則徐が原因なのでなくイギリス側の攻撃姿勢の不変にこそ原因があります。
 ④ 条約締結後も開港した五港以外の港でも密貿易をイギリス商人は繰り返しました。『別段風説書が語る19世紀』p.133) 
 ⑤ 福沢は、道理に反したアヘン貿易を「非理(非人道的)」と思わず、逆に、林に見られるような民族の正当な権益を守る中国志士の抵抗を否定しました。ここに福沢の侵略傾向が見えています。
 ⑥ 「イギリスをとがむる者はなく、なんてまちがいです。本国の議会で半分近い議員たちが反対しており、林則徐と交渉した監督官エリオットはパーマストンにあてた手紙に「中国沿岸におけるこの強引な交易は不名誉であり罪です。このことに深い嫌悪を抱かない者はいません」と。パーマストンは彼を「waste paper 紙屑(かみくず)」と非難して解任しました(ウィキペディア→Charles Elliot)

12 南京条約

1842年 南京条約
 ① 上海・寧波・福州・厦門・広東のと南京以外の5港が開港
 ② 香港島割譲(アヘン・苦力貿易の基地になる)
 ③ 公行廃止、賠償金(銀2100万元の支払いとなり、この額は清朝歳入の2.5倍に相当) 
 ④ 関税協定権:英国との協議(受諾)がなくては関税を決められない、関税自主権(国家が他国に強制されず自主的に関税を決定できる権利)を失う

1 上海(シャンハイ) 2 寧波(ニンポー) 3 福州(フッチュ)
4 厦門(アモイ) 5 広東(カントン)
 条約にはアヘン貿易の禁止が書いてありません。イギリスは執拗にアヘン貿易を許可する条項を書くよう求めてきましたが、清朝は拒絶しました。

13 追加条約

 1843年に虎門寨(こもんさい)追加条約を結び、  
 ⑤ 最恵国待遇、租界(そかい)などを認めます。最恵国待遇 most‐favoured‐nation treatment とは、英国以外の他の貿易相手国と協定した際に比べ、関税や輸出入手続きなどの交易条件を英国にたいして不利にしないこと。
 また租界とは、外国政府が中国政府から租借した土地を各国領事を通じて個人に払い下げる。租界は中国の統治権が及ばない独立した地域です。
 ⑥ 領事裁判権という治外(ちがい)法権も認めました。これは領事(通商保護 外交官)が任地国内に居住する自国民にもつ裁判権のこと。中国でイギリス人が殺人をした場合、中国人がイギリス人を裁くのではなくイギリス国(領事)が裁く権利をもつ。これはつまり被告人たるイギリス人の罪が軽くなる可能性をもつことになります。

14 日本の領事裁判権

問 日本で、アメリカは領事裁判権をもっています。しかし「領事裁判権」といわないで、なんという文書でこれは定めていますか?
 
 答 1951年の日米地位協定(Japan Status of Forces Agreement、詳しくは、旧安保条約+行政協定)で、米軍関係者が日本の法によって裁かれない=治外法権を認めました。
 この他、犯罪以外の諸問題については、日米合同委員会(米側7人、日本側6人)が月2回開かれ決定しています。内容は非公開です。
 日本はアメリカ合衆国の保護国・属国です。つまり外交権がありません。
 疑問におもうかたは、矢部宏治『知ってはいけない隠された日本支配の構造』講談社を是非お読みください。また以下の史料も。 
★合衆国歴史・外交史料・対日
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1229

15 望厦条約・黄埔条約は南京条約と同じ?

問 教科書には「44年にアメリカ合衆国と望厦条約を、フランスと黄埔条約を結び、イギリスと同様の権利を認めた」と書いてありますが、二つの条約には、南京条約と違いがあります。何でしょう?

答 望厦条約にも黄埔条約にも、両国はアヘンという禁制品を持ち込まない、と清朝と約束している点。南京条約にはイギリスの要求を清朝が拒絶したためアヘンに関する条項はない。

 望厦条約
 13条 外国貿易に開放されていない中国の港で密かに貿易を行おうとしたり、アヘンやその他の禁制品を取引しようとする米国の市民は、中国政府によって対処されるものとし、米国からいかなる見返りや保護を受ける権利はない。
 原文は、ウィキソースの Treaty of Wanghia
Article XXXIII.
Citizens of the United States, who shall attempt to trade clandestinely with such of the ports of China as are not open to foreign commerce, or who shall trade in opium or any other contraband article of merchandise, shall be subject to be dealt with by the Chinese government, without being entitled to any countenance or protection from that of the United States; and the United States will take measures to prevent their flag from being abused by the subjects of other nations, as a cover for the violation of the laws of the empire.

 黄埔条約
 17条 ……再輸出された貨物に不正または禁制品があることを当局が見つけた場合、確認の後、中国政府のために没収されることになる。

 原文は、ウィキソースの Treaty of Whampoa
ARTICLE XVII.
Mais de cette déc1aration, les négociants français n'auront, à leur arrivée dans l'autre port, qu'il la présenter, par l'entremise du Consul, au Chef de la Douane, qui délivrera pour cette partie de la cargaison, sans retard et sans frais, un permis de débarquement en franchise de droits; mais si l'autorité découvrait de la fraude ou de la contrebande parmi les marchandises ainsi réexportées, celles-ci seraient, après vérification, confisquées au profit du Gouvernement chinois.

16 アヘン戦争の影響

戦争による中国社会への影響
① 銀価の急上昇→地丁銀の重税化、天災も加わって、生活の圧迫、失業者や流民が急増
② 地主(・佃戸)制の拡大→太平天国へ
③ 軍事の近代化の必要性→魏源『海国図志』

 アヘン戦争による中国社会への影響は大きいものでした。
 第一に銀の流出によって、銀は高くなり、その結果、銀で払っている地丁銀という税金も高くなっていきました。(すべてのひとが銀を持っているのでなく、持っている銅貨と銀の重量との比で支払っているのですが、銅貨の枚数が増えることになりました。銀の銅銭に対する比価は1821年から1849年の間に85,9%も騰貴しました。農民の負担は大きくなります。地主は銀と銅銭の換算率を市場相場より高くして農民に支払わせようとし、付加税を加徴したりしたため、土地喪失民が増えていきます。)それに天災(水害・早害・蝗害)も加わって、生活を圧迫し、失業者や流民が急増していきました。
② 地主(・佃戸)制が拡大します。佃戸とは小作人のことで、地主は地主で土地を喪失民から買い占め、土地喪失民は佃戸に転落します。これらの現象は50年代の太平天国の遠因となっていきます。

 軍事力の大差は、軍事の近代化の必要性を認めさせました。林則徐は海外の軍事情報を集めて研究していましたが、欽差大臣に任命されたため、この研究を弟子の魏源に託しました。魏源はこれを完成して『海国図志』を著します。この書を林則徐に献げています。この本は朝鮮・日本にも伝わってきました。

17 中国の対外関係の変化

① 冊封体制→対等外交
② 朝貢貿易→自由貿易
③ 自給自足→世界経済に組み込み

 ① 冊封体制とは中国皇帝を頂点として、周辺国が中国の家臣の立場をとる中国中心の国際関係のことです。それが崩れて、周辺国も主権国家となり、中国と対等に付き合う国家に変わっていきます。
 ② 朝貢貿易とは、家臣である周辺国が貢ぎものをもって皇帝に挨拶にいく朝貢にたいして、中国皇帝が恩恵として品物を倍返しで中国の品物を与える(下賜する)かたちの取引き。つまり国家間貿易です。民間商人はこの国家に食い込むことでしか入り込めない。それが公人・民間人の区別がなくなり、自由に貿易ができるように変化します。

 1842年の南京条約の時は、不平等条約を結んでいるので、すぐ「対等」「自由」な貿易になったのでなく、先の出来事になります。中国が不平等条約を解消するのは100年後の1943年です。
 ③ 中国に不足するものは何もないので貿易の必要性はない、と満足していましたが、戦争以降は強引に国際経済に組み込まれて、その動向に左右される経済に変動します。 
 ③について
マカートニーにたいして(1793年)乾隆帝は、「天朝(中国)の物産は豊かでないものはなく、もともと外国産のものに頼って有無を通ずる必要はない。ただ天朝に産する茶、磁器、生糸は西洋各国および汝(なんじ)の国の必需品であるから、恩恤(おんじゅつ)を加え、マカオに洋行を開設して日用品を資助し、天朝の余沢に沾(うるお)うことを認めているのである」と言っています。

18 ヴィクトリア女王との対話

 アヘン戦争当時のイギリスの君主はヴィクトリア女王でした。この戦争に対してどんな姿勢を示したのか見てみましょう。

●ヴィクトリア
 21世紀にわたしを呼び出すとは、迷惑なことですよ、無礼者 !
○大上
 あの世に行っても偉そうですね。呼びだしたのは、アヘン戦争が始まったときの女王があなたであり、南京条約はあなたの署名で結ばれているからです。イギリス艦隊の派遣を薦めたパーマストン外相の演説に反対した若い議員グラッドストンを生涯嫌い、「半狂人“half-crazy”」とか、ときに「馬鹿馬鹿しい老いぼれ狂人“ridiculous old fanatic”」と、ののしっていましたね。
 あなたにとってアヘン貿易・アヘン戦争が中国人に迷惑がかかる、ということは考えませんでしたか? 林則徐はあなたに手紙を出しているのですが、届いていませんか?
●ヴィクトリア
 戦争はいいことよ。とくにアジアの未開なものたちを文明化するには、容赦のない取り組みが必要なこともありますよ。インド人のためにどれほど恵んでやったことか。林則徐の手紙なんて知らないわよ。だれか私の手元に来る前に捨てたんじゃないの。それに1840年頃はわたしは結婚したばかりで……、
○大上
 文明化ですか。嘘でしょう。インドで鉄道を敷いてやった、道路をつくってやった、港湾を整備した、とあなたの子孫たちは今も言っています。だが、それはあなたの国の利益ために作ったのであり、「インド人のため」は、後付けの言い訳です。植民地経営で利益をえるために投資しているのであり、莫大な利益を実際に得ているではありませんか。中国でもアヘン貿易で莫大な利益をあげ、アヘン戦争では2万人の中国人を殺し、数千万の中毒者を生んでいるではありませんか?
●ヴィクトリア
 わたしにとって、1840年はそれどころではなかったのよ。2月にアルバート公と結婚して、すぐ妊娠し、8月に母に会いに行く途中に襲撃されて殺されそうになった。なんとか無事だったけど11月には王子を産んだのよ。めまぐるしい年でした。戦争のことはみな大臣・議会に任せていましたよ。
○大上
 確かに責任内閣制ですから、国王が政治に介入することはなくなりましたよ。しかし、あなたは気に入らないと、退位すると脅して政治介入をよくしてますよ。何より条約はあなたの名前で結ばれ、アジア・アフリカから帰ってきたら軍人たちに会い、褒賞を与えてきたではありませんか?
●ヴィクトリア
 大英帝国の栄光になるなら、犠牲になるアジア・アフリカのひとたちなんか考えないのよ。わたしたち文明人が栄えることは、結局、全人類のためになるのよ。グラッドストンの「小英国主義 Little Englander/ Little England」なんて、とんでもない。もうろくジジイのたわごとよ。ああ、また言っちゃった。
○大上
 あなたの下にいる軍人たち、それを指揮する司令官たち、決定権をもつ議員たち、みな「けだもの beast」です。大英帝国のために殺戮(さつりく)を当たり前のこととして行動しているのが「文明」国のすがたです。
 ところで宮殿であなた(1819〜1901)は貴族の娘であったナイチンゲール(1820〜1910)とよく会っていますね。同じ年頃で、若いときから付き合いがあります。クリミア戦争の後は彼女の労苦をねぎらい、褒賞を与えています。「ナイチンゲール誓詞」というものができて、看護師たちの規範になっています。この中に「毒あるもの、悪しき薬を用いず、またそれと知りつつ与えることをしません」という誓いがあります。本人から似たような話しを聞いていませんか?
●ヴィクトリア
 彼女の功績はおおきいですが、国家のための戦争は彼女の働きとは無関係です。 
○大上
 なるほど。帝国主義政策を推進した女王らしい。1861年に夫に死なれて喪服のまま後の40年を過ごされましたが、悲しみは身内のためにしか残っていないようです。あなたの情の薄さはピカ一です。それでもキリスト教徒ですかね? 英国国教会の首長ですよ。
(この会話はわたしの創作です。女王の伝記・手紙・イギリス史を読んでつくりました。ナイチンゲールは、「“看護師”誕生 ナイチンゲールからのメッセージ」https://www.dailymotion.com/video/x8cu42q から。女王はナイチンゲールと約20回会見しています。)

19 日本のアヘン販売

問 アヘン販売といえば、日本も深い関わりがあります。日本がアヘンを売って利益をあげたのはどこですか?
答 満州国
 これは満州国編で説明することにします。
▶鹿子・門馬司『満州アヘンスワッド』(講談社)

20 謝罪

 最初の問いに帰ります。イギリスは国家として謝罪すべきかどうか、でした。
 わたしの答えは「(2) 謝罪すべき」です。
 たしかに、国家無答責の法理があります。これは、国家は国家の行為による責任は問われない、ということです。イギリスには、「国王は悪をなし得ない Crown can do no wrong」という法理がありましたが、1947年までで、今は、国王訴追法、国王訴訟手続法 Crown Proceedings Act)が制定され否定されました。

 日本でも中国人を宮崎県日之影町の槙峰(まきみね)鉱山で強制労働をさせたとして、裁判で国側の主張であった「国家無答責」は退けられています(2007/03/26)。
 戦争や植民地支配責任には国家と個人の責任がありますが、多くは国家に責任があります。王国であれば、決定権をもつ国王、さらに議会・内閣に責任があります。

 ヴィクトリア女王のときには無答責の法理があるから責任を問うべきではない、と言えますが、そうでしょうか? 
 事後法(不遡ふそ原則/罪刑法定主義)という法理もあり、これは刑罰が科せられるかどうかは,行為の前にあらかじめ法律によって定められていなければならない、というものです。しかし法は基本的に事後法です。二度と起きないようにと後で制定されるものです。近代法の起源とされるマグナ=カルタがそうでした。

 しかし法がある・ない、で何をしても責任は問われない……それは古代であろうと近代であろうと、認めがたい考えです。戦争をしてまで毒を売りつける、という行為は、法がある・ないで認めてもいいものでしょうか? 当時はイギリスの議会は派兵を多数決で決めましたが、こんなことは、多数決で決めることでしょうか?

 といってイギリスは謝罪の歴史をもっています。謝罪・準謝罪をしたことがあります。
 2013年にアムリットサル虐殺事件について、キャメロン首相は遺憾(regret)の表明をしています。
2019年、メイ首相は、アムリットサル虐殺事件が、「英国史の恥ずべき傷」と表明しています。
https://jp.reuters.com/article/us-britain-india-amritsar/british-pm-regrets-deeply-shameful-colonial-indian-massacre-idUSBRE91J0AA20130220

1999年, 首相ブレア、ジャガイモ飢饉(1845〜49)についてアイルランドに謝罪(apology)。https://www.independent.co.uk/news/blair-issues-apology-for-irish-potato-famine-1253790.html

2006年 英国首相ブレアはガーナにたいして奴隷貿易に対する遺憾と経済復興の約束をした。
https://facta.co.jp/article/200705013.html

2008年2月13日、オーストラリアのケビン・ラッド首相はアボリジニたちの前で、220年前に初の白人入植者たちが上陸して以来、アボリジニに与えてきた不当なことや侮辱について語りました。「お詫びする(sorry)」という謝罪の言葉を、首相は6回繰り返した。
→Apology to Australia's Indigenous peoples(https://en.wikipedia.org/wiki/Apology_to_Australia's_Indigenous_peoples)

2013年ケニアに対して、英国政府として1950年代(1952〜1963)のマウマウ団に対する弾圧を謝罪しました。
https://www.theguardian.com/world/2013/jun/06/uk-compensate-kenya-mau-mau-torture

イギリスではありませんが、2023年7月 オランダ国王が奴隷制について謝罪しました。「人道犯罪」の許し請う、と。
https://news.yahoo.co.jp/articles/65d4421def4f224e71383190b414cd02695ebe16
 国家無答責にこだわるひとは、ウィキペディアの「歴史問題における謝罪」も参照してください。

21 なぜ謝罪?

 現在生きているイギリス人はアヘン戦争の責任はないから、問うこと自体が無理だ、とおもう方もいるでしょう。
 過去の責任は現代人にとって、直接的には無関係です。しかし、現在生きているひとが、代表として国の元首が謝罪する必要があります。なぜなら、
 (1) それは先祖が過去に謝罪をしていない問題があり、それが今生きている子孫に課題として残されているからです。
 (2) 今生きているひとたちは、過去の遺産、文化的・経済的遺産の恩恵の上に生きており、まったく無関係ではないからです。正であれ、負であれ、先祖の蓄積の上に生きています。負をくりかえさず、今生きている隣人・遠人との友好関係を築くためにも原因究明と謝罪は必要です。

 次回は、太平天国です。おたのしみに。

22追記

 アヘン貿易は結局廃止されることになりましたが、それはイギリスの下院議員ピーズ(Sir Joseph Pease、1834〜1916)の働きかけと、中国に向かった宣教師たちによる被害調査と反対運動が寄与しています。ピーズ議員の提案でアヘン製造の禁止法(1906)ができ、宣教師たちは上海布教会議(1890)で、宣教師はアヘンの積荷とともに訪中しているため、これを結び付けられると困るので、反アヘン協会推進常任委員会を設立します。ここで9条の議定書を決議しました。アメリカ人宣教師にも呼びかけ、本国イギリス議会にも働きかけました。
  ハーグで国際阿片会議が開かれ(1911〜1912)、阿片条約が調印されました。ジュネーヴ国際阿片会議(1925)で追加・補足の条約も結ばれました。イギリス、インド、オランダ、シャム、日本、フランス、ポルトガルが参加しました。あれ、日本?

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