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文通を味わう

僕の趣味のひとつに文通がある。

「趣味はこれこれと、あと文通です」と言うと、たいてい驚かれる。文通という趣味が珍しいからなのか、見た目に不似合いだからか分からないが、そこで反応がある場合が多い。

文通のきっかけは大学卒業時。仲が良かった友人と離ればなれになるときに、手紙を書くからと約束したことがはじまりである。僕もその友人もド文系なので、文章を書くことにやぶさかではなかった。
実際に手紙を書くと、直話とも、電話とも、もちろんSNSとも違った面白さに気づき、はまってしまった。今ではその友人だけでなく、定期的に複数人と手紙でやりとりをしている。

思うに、手紙には主に3つの良さ(面白さ)があると思う。

ひとつは、話し言葉とは異なり、言葉を探す十分な時間があるということである。想いや心境、状況に対して適切な言葉を当てることができる。
込み入ったことや、誤解を招く恐れがあること、心の内を吐露するときには、なるべく意に沿った言葉を選びたいものである。そのようなときに手紙だと伝えたいことかつ、きちんと伝わる言葉を探すゆとりを持つことができる。

ふたつ目はこのゆとりによって、返信までにも時間の余裕があることである。
SNSだと“既読”が付いたりして、返信を急かされているような心境になる。サクッとメッセージを送れる軽さがSNSのよさのひとつでもあるが、その裏腹に早く返さなければという強迫観念のようなものを感じてしまう。

手紙の場合もやりとりなので、送られてきた中身に呼応する形で返信文を書く。会話のように短いスパンで未完の語りを交互に被せて、ひとつの完成を目指すように、一通の手紙を未完とみることもできる。
しかし、主観的なものさしになるが、会話やSNSよりも手紙のほうが中身の密度が圧倒的に濃く、手紙は一通一通で完結していると見ることもできる。
極端に言えば、その完結性によって手紙はひとつの作品のように閉じられており、掛け合うことで成り立たつ会話のような開かれたやり取りではない。この手紙の特徴によって、強迫的なまでの返信が求められていないように思われる。

そして手紙のもうひとつの良さは、手紙の内容やその季節、自分の心情を、便箋や切手、ペンの種類によって、演出や遊び心を取り入れられることである。
僕は硬い文章のときは無地の和紙を選んだり、前向きな近況報告の場合は、どら焼きの絵柄がプリントされているようなポップなものを選んだりしてる。または例えば今の季節だと、桜や野花が彩られたものを選ぶことも多い。切手も季節や中身に応じて使うものを選んでいる。
手紙を封印するときにはシーリングスタンプを使う場合もある。

マイ・シーリングスタンプ

このような装飾は、伝えたい事柄にふさわしい雰囲気を醸し出すことができるし、また書き手の遊び心を密かに取り入れて、趣を添えることができる。
それは茶道で亭主が想いや茶会の主題をもとに茶道具や掛物を選ぶことに近いのかもしれない。
なので、手紙を受け取る側になれば、(差出人によるが)内容だけでない意図を読み取る楽しさもある。

これらの手紙の良さに付随して他にも面白さはあるが、際限がないので、最後に手紙を書くことによる副産物をひとつ挙げて終わることにする。

手紙に心境を吐露する場合、その過程は自分自身と向き合う時間でもあるように感じる。それは、もやもやと渦巻いていた何かに言葉を与えていくことであり、書き終えたときには、言葉となって排出されて、心が軽くなっている。まさにカタルシスという言葉がぴったりの効能があるように思う。

あくまで副産物であるので、このカタルシスを得るために手紙を書くわけではないが、この思わぬ経験が文通を趣味にまで押し上げた要因のひとつだと思う。

皆さんも、久しく連絡を取っていない友人や知人に手紙を書いてみてはいかかだろうか。

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