第3話「蛇夜」
スマートな佇まいで長身の男性が靴音もさせずに歩いて来た。暗がりでもわかるシルエット。童顔で爽やかな笑顔が素敵な男性。背後から現れた人物は職場の一番人気の羽鳥武彦だった。
「あれ、日比野さんじゃないですか?残業してたんですね。すいません、誰も居ないと思って、驚かせて申し訳ない」
驚いたのは驚いたけど、一番驚いたのは彼も会社に残っていたこと。てっきり同僚たちと飲みに行ったと思っていたからだ。それにしても彼の爽やかな笑顔は癒しになる。残業してた割には疲れた顔もしていない。スーツだってシワもなければ、ましてや顔に脂だって浮いていない。
「そう言えば今朝、珍しく遅刻してましたよね」
私が遅刻したことを知っているんだ。それだけで嬉しくなる。単純なことだけど、私という存在が彼の中にあるって証拠。眼中のない相手なら遅刻しようが欠勤しようが知ることはない。
「皆んなと飲みに行かなかったの?」と私は訊いた。
すると、彼は手に持っていた書類をチラッと見て、「今度のプロジェクトは失敗が許されないので、少しでも仕事を進めたいんですよね。飲みに行くならプロジェクトが成功してからです」
当たり前のように答える彼を見て、私は彼の同期と伸び抜けていると思った。仕事に関しての情熱が違うのだ。息抜きも大事だけど、他の社員が休んでる間も仕事に関して努力することを忘れない。
これこそが仕事のできる男とできない男の差なんだろう。この人は必ず出世して尊敬できる上司になる。私は彼の姿勢を見て思うのだった。
嗚呼、せっかく二人っきりになれたのに、これ以上会話が続かない。もっと話したい筈なのに話題が浮かばない。歳を重ねるほど男に対して免疫力が下がる一方だ。
「日比野さんもプロジェクトに参加すれば良いのに」と彼が距離を置いて話す。
思ってもいなかった言葉に、私は舞い上がる気持ちを抑えて、重要な仕事は向いてないと断るのだった。本音は役に立たなくても一緒に仕事ができるなら嬉しい。だけど私の仕事は所詮、事務的な裏方の仕事である。彼のような花形の仕事とは違う。
それにしても書類を持つ、彼の指は綺麗だった。改めて意識して見たことがなかったので、毛のない細長い指に見惚れる。願わくばあんな綺麗な手に触られたい。毎日だって良い。彼が望むままに捧げたいと心の中で思った。
ここ十年以上、男に触れられるどころかセックスさえしていない。
まぁ、こんな容姿じゃ無理か。
「ん、どうしたんですか?僕の顔に何か付いてます」
なんてこったい。僅か数分の会話でボケっと彼の顔に見惚れていたようだ。しかも、あの細長い指で触られたいとか、エロい妄想に耽っている。全くもって気持ち悪い女だと自分で思った。部屋は汚いわ、脂性で団子鼻のブサイクな女。こんな女と話すことさえ嫌だろう。
「帰りませんか?」と羽鳥武彦はそう言って、窓の景色を見た。
夜景が綺麗な都会の風景。恋人同士だったら絶対にあの綺麗な夜景をバックに口づけしてる。妄想もいいところで性欲が溜まっているのか、私の思考回路はズレているようだ。
まさか一緒に帰るなんて思わないが、そんな淡い期待をしている自分が少しだけ居た。言葉を交わすことなく頷いて、私は会社の鍵を握りしめて先へ歩き始めた。チャンスをものにできるほど器用でもない。年齢を重ねている割には奥手という女。なんの魅力もないのだろう。
彼が背後から歩いて来る気配を感じながら、私は部屋の扉へ手を伸ばそうとした。
ガチン!?ガガ、ガチン!!
奇妙な音が背後から聞こえた。聞きなれない音は人を不安にさせて動きを停止させる。昨夜の出来事もあったせいか、伸ばした手を引っ込めて背後の彼へ神経を働かせた。
そして、奇妙な音が聞こえたあと、社内の照明が消えたのは、数秒後の出来事だった。
第4話につづく
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