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第5話「蛇夜」

老婆が卵を丸飲みしてる。そんな場面に出くわしたら慌てて逃げるだろう。そんな時こそ冷静に行動しなきゃいけないのに、私はもろに自動ドアに体当たりをした。

自動ドアは揺れながら左右に開く。恥ずかしいとかそんなの関係ない、とにかくその場から逃げたかった。開いたドアの隙間へ身体を滑り込ませると、必死な顔して外へ逃げ出す。


そんな逃げる様はまるで食い逃げのようだ。


怖い!怖い!!怖い!!!


ヒールで必死に走る姿は無様で、いつ転んでおかしくなかった。それでも私は無我夢中でマンションへ向かって必死に走る。

後ろを振り返る余裕さえない。振り返ったら老婆が追いかけて来るか、最悪蛇の顔した化け物が追って来るに違いない。


走り続けて息も切れ切れでマンション前の公園を横切ったとき、私は遂に力尽きたのか、足がもつれて派手に前乗りで倒れ込んだ。

膝をアスファルトに激しく打ち、私は転がるように地面へスライディングした!膝と肘に打ち付けた痛みを感じたあと、アスファルト擦れ擦れに顔が近づいた。


呻き声を上げて、その場で痛みに堪える。膝や肘から血が出ている感覚がみるみるうちに熱を帯びた。電信柱の街灯が、転げて倒れた私をスポットライトのように照らし出した。


数秒、アスファルトを見つめてから目に涙が滲んだ。


時間帯もあって住宅街は静寂で、人の気配は全く感じられない。肥満体の身体から汗が吹く。額から汗が垂れ流れてはアスファルトの上に黒い点が染み込んだ。足元へ視線を移すと、ヒールの踵が折れているのが見えた。


最悪な一日だった。昨夜から最悪な出来事が起きている。こんな恐ろしい目に合うなんて、人生初の最悪な夜だった。

これも全て蛇の呪いなのか!?きっとあの老婆は人間じゃない。私は見てはいけないモノを見てしまったのだ。


老婆は言った、見ては駄目と……


しばらく私は立ち上がることもできなかった。恐怖と痛みで何も考えられない。何か人に対して怨みを買うようなことは人生でしていない。自分の容姿を知っていたし、自分の性格も知っているつもりだ。


私は私なりに目立たないよう静かな暮らしをしていた筈……


ようやく起き上がると後ろを振り返った。住宅街は静寂に包まれており、老婆が追いかけて来るようなことはなかった。私は折れた踵を拾って、足の痛みを我慢しながらマンションへと歩いた。エントランスに人の姿は無く、いつもより静まり返っているような気がした。


いや、きっと気がしてるだけで、いつもと変わらないのだろう。恐怖という体験が過敏に精神を混乱させているのだ。踵の折れたヒールで歩き、自分の部屋番号を押して中へ入る。何度か後ろを振り返ったが誰の姿も見えない。


どうやら追いかけて来る気配はなかった。汗だくの額を拭ってエレベーターのボタンを押した。呼吸を落ち着かせて開いたドアから中へ入ると、私は壁際にもたれて大きく息を吸った。擦りむいた肘を手のひらで覆い、七階のボタンを押した。


ヴーンと篭ったような音をさせてエレベーターは私を運ぶ。何事もなく無事に八階へ到着するとドアは開いた。開いた瞬間、目の前に老婆が居るかもしれないと思い、構えていたけど誰も居なかった。フゥと息を吐いて、薄暗い廊下を歩き自分の部屋の前へ行く。


バックから鍵を取り出して、鍵穴へ差し込む。その時、部屋に入ることを悩んだ。一瞬、そう思ったら手が動かない。昨夜の蛇事件から始まった奇妙な出来事を考えると、部屋に戻ること自体が危険なのではないか?

今夜はビジネスホテルに泊まった方が無難な考えかもしれない。だが、自分のベッドで寝てしまいたい。葛藤すること数分、結局、私は素直に部屋へ入ることを選んだ。差し込んだままの鍵をゆっくりと廻して、鍵の開いた音を確実に聞いてからドアの取っ手に手を置いた。


次の瞬間、手のひらに生柔らかい感触を感じた。掴んだ取っ手がいつもと違う。違和感のある取っ手へ目玉だけ動かして視線を下げた。見るんじゃなかった。瞬時に後悔をして取っ手を掴む手が震えた。なんと扉の取っ手が蛇口から飛び出て来た赤茶色の蛇に変わっていたのだ!


離さないなきゃーーと思った。だが、蛇は胴体部分を掴んだ私の手首に向かって、鋭い牙を剥き出しにして襲いかかった!刹那の如く、蛇は鋭い牙を手首に食い込ませるとゴキンという鈍い音をさせて、手首ごと噛み切った!


蛇の胴体部分を握った手がストンと落ちて、手首から真っ赤な血の塊が吹き出す。私は尋常じゃない痛みに青ざめて、これが現実なのか頭で理解できていない。ただただ足元に落ちた手のひらだけが目に映る。私は項垂れたまま後ろへよろけると、壁際にぶつかり辛うじて倒れなかった。


そして頭を上げた瞬間、真っ赤な血が飛び散った扉の隙間から何十匹いう蛇が這い出て来る光景を目にした。恐怖と痛みで声を失った。何十匹という蛇は私の足元から這いずり上がり、上半身へ移動すると、腕や首へと巻きついた。


し、死ぬ!


こ、殺される!!


心の中で叫びながら、身体中を這う蛇たちが穴という穴へ入って来た。首筋から口の中へ入ったとき、嗚咽と気持ち悪さで目から涙が溢れ出す。手首からの多量の出血で朦朧とする中、私は自分の身体の中へ入っていく蛇を感じていた。


そして眼球が潰れたとき、足元の落ちているバッグから携帯電話が鳴っている音を耳に聴いた。


それを最後に私の目の前は真っ暗になるのだった。


第6話につづく

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