第69話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
寒さのある寂しさが千夏の身体を冷やしたのか?それとも北風から生まれたから冷たいのか?僕の手のひらで包んだ胸は冷たかった。
それは、ずっとずっと暖まることはなかったーーーー
1977年の出来事。僕は三歳の子供だった。幼かった僕は記憶として残っていない。千夏が話してくれた保育園での思い出。僕と千夏の関係性がわかり、僕の感情が生まれた瞬間でもあった。
この出来事が、今の僕を生み出したと言うなら、千夏の本能は果てしないと思う。何十年と待ち続けて、僕と再会を果たすなんて……
これは奇跡にも近い。
「君が五歳になったとき、私は君のために自らを捧げたわ。きっと、寂しそうに見えたのかな?それでも君は、一度の行為で満足しなかった。だから、私は何度も教室でおっぱいを与え続けた。その頃、私の中で母性愛が生まれた。君は無邪気な顔して、私のおっぱいを吸っては美味しいと言ってくれた。君が私の胸を愛撫してるとき、あの頃と同じ言葉を言ったのは驚いたわ。変わっていないと。あの頃の君が古いフィルムとなって蘇ったの。可愛い。なんて可愛いの。そんな風に思ったし感じたの。信じられないと思うけど、私が君を待ち続けた理由は、あの頃の気持ちを確かめたかった。君におっぱいを吸わせていくうちに、母性愛は真実の愛に変わった。私は五歳の君に聞いたの。先生のこと愛してるって……」
「愛してる。五歳の僕は愛してると言ったんだね。だから、僕を待ち続けた。この愛は果たして叶うのか?そして、僕たちは出会ったんだ」
「そうよ、信じられる。私たちは再会したのよ。馬鹿みたいでしょう。でもね、私は君に対して、母性愛から君を愛してしまったの。一人の大人として。それが数ヶ月前の出来事だった。そして君は今夜、私の元へ来てくれた。私は君のことが好きなの。ううん、君のことを愛してる」
僕たちは出会った瞬間、再び出会う運命だったのか。母性愛から僕を待ち続けた千夏。それは一人の子供を愛してしまった真実の愛だった。僕と千夏は抱き合い、何度も何度もキスを繰り返した。冷たかった身体にぬくもりが戻ったとき、千夏の大人の災いは終わろうとしていた。
それは、千夏しかわからない真実だろう。だけど、僕はこの先、もう一つの災いを知ることになるのだったーーーー
花柄のシュシュを使って、まだ短い髪の毛を後ろへ一生懸命に束ねた。ポニーテールとしては短いけれど、千夏は僕の要望に応えてくれた。斜めに向いて、似合うかしらと聞いてくる。大人のポニーテールは、僕の感情を揺らすようだった。
あまりにも魅力的な姿に何も言えなかった。つまり見惚れているのだ。今夜の千夏は、世界中の誰よりも魅力的だと本人が言っていた。(言ったのは二十歳の長谷川千夏だけど)
「もっと伸びたら理想的になるわよ」と千夏が言う。
「うん。今でも十分可愛いけど楽しみだな」僕はそう言って、千夏の手を握って歩いた。
僕らは夜明けの図書館を後にして、透き通った空気が漂う公園を二人で歩くのだった。車に乗り込んで、千夏のマンションへ向かう。時間帯は朝方の風景から太陽が街並みを染めようとしていた。
僕たちの触れ合いは終わらない。千夏のマンションへ着いた頃、美鈴が起き出す頃だった。
僕の帰りを待つために。そんなことも知らず僕たちは朝のモーニングを用意していた。
ダイニングキッチンから出されるサラダ。こんがり焼けたトースト。コーヒーの香りが部屋に漂っては、朝の風景を感じた。朝食前に部屋の様子を眺める。ダイニングキッチンから二人掛けのテーブル。リビングは広めで15畳程あり、L型のソファーに丸いクッションが並んでいた。ブロックの棚が階段みたいに積まれて、本や小物類が綺麗に整頓されていた。
ソファーの前にデザインテーブルが置かれている。僕の知らない部屋の模様に大人の生活を感じさせた。要するに、オシャレな感覚を持った部屋なのである。清潔感ある空気と防音の壁が使用されているのか、まるで静寂すぎる図書館を思わせた。
「海ちゃん食べないの?」と千夏の声が反響する。
「食べるよ。それにしても静かな部屋だね。千夏の声が反響するようだよ。空気に伝わるのかな?」
「この部屋に来た人は、みんなそう言うわ。姫子ちゃんもそんなことを言ってたな」
「姫子ちゃん!?」と訊いてから、一瞬思い浮かばなかった。そして、受付のショートカットの女性だと気づいた。そう言えば、彼女から図書館で働かないかと誘われたことを思い出すのだった。
今から間に合うのだろうか?あれから随分過ぎていた。だけど、今の僕は働きたいと考えていた。何故なら、千夏と一緒に過ごす時間が増えるからだ。
千夏と一緒に居たい。それだけが僕の心を染めていた。そして、僕はある決断をしようとしていた。それは非情な考えだろう。それでも抑えきれない気持ちが胸を揺らしていた。
僕がその気持ちを伝えたら、美鈴はどうするだろうか?もしかしたら、壊れるかもしれない。すべて壊れてゼロになるかも。すべては明日次第だろう。
僕はそんな風に思いながら、揺れるポニーテールをいつまでも見つめていた。
第70話につづく
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