第53話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
真夜中の世界を彷徨う二人の影。僕はポニーテールの似合う女の子と夜の公園を散歩した。千夏先生と別れた帰り道、僕の横を知らぬ間に寄り添っていた。『鍵のない扉を開けに行こう』と彼女から誘われた。『帰る場所を失ったと思いなさい』そんな言葉を彼女は僕に向かって言う。
「大丈夫、帰る場所はあるから」と僕は言葉を返した。『それは意味合いが違うのよ』と彼女は柔らかい声で言った。
それについて考えたけど、答えが見えない霧の中を彷徨う感じに思えた。僕の腕を掴んで、楽しそうに話す彼女は淡いピンク色のブラウスにチェックのスカート。
数分前の千夏先生と同じ格好で、また彼女も千夏先生なのだ。
二十歳の長谷川千夏が、僕の横を一緒に歩いている。これは紛れもなく現実の世界だった。四十三歳の長谷川千夏は心に病を抱いていた。これもまた紛れもない現実の世界である。
潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く。それは心の支えであり、僕にはまだ可能性の一つとして存在している。話を戻そう。鍵のない扉を開けるとは何なのか?彼女の言葉を一つ一つ意味として考えるのは難しい。
意味として考えること自体、間違いであって正解とは言えない。つまり、感じるままに行動するしかないのだ。
人は何かを始めようとしたとき、必ず行動という一歩を踏み出すしか方法はなかった。踏み出すという行動が始めるという意味なのだ。
そこから本当の意味が生まれる。だから、今の僕は、行動して見えない道を踏み出さなくてはならない。
それが僕の生きる道なんだ……
そう考えると寂しさの寒さも、なんとなくわかったような気がした。四十三歳の長谷川千夏も、二十歳の長谷川千夏も寂しさの寒さに震えているんだ。
隣の彼女へ伝えるように心の中で呟いた。それは、きっと伝わると思ったからだ。彼女は僕の思考を読み取ると知っていたから。そんな風に考えていると、僕の肌に冷たい空気がそっと触るのだった。
そのとき、何を思い何を感じたのか。まどろむ感覚に、僕はポニーテールの似合う女の子を見つめた。
ぼやけた映像の中、彼女は僕に言葉を投げかけた。
『鍵のない扉を開けなさい』と。
それを最後に、僕の思考はストップした。大人の成人式で体験した出来事が再び起こる。あのときも、深い眠りという願望の世界に迷い込んでいた。桃香に起こされて、僕は鏡の僕と現実の世界へ帰って来たんだ。
だけど、今回は違っていた。真夜中の冷たい空気に起こされたみたいだ。目を開けて、そこが真夜中の公園だと気がついた。
千夏先生と別れたあと、僕は一人公園のベンチで眠ってしまったようだ。それは願望の世界で、現実とは少しずれた世界なんだろう。真夜中の公園を散歩していたのは願望の世界。そして、僕と一緒に居たのは二十歳の長谷川千夏。
別れ際、彼女が言った言葉を頭の中で呪文のように繰り返す。
『鍵のない扉を開けなさい』意味なんて考えるな。まずは行動に移すしかない。僕はベンチから立ち上がると、鍵のない扉を開けるべき場所へ向かった。
そこで何が起こるかはわからない。もしかしたら、大人の災いが降りかかるかもしれない。だが、それも違うと心の中で否定した。四十三歳の長谷川千夏は言っていた。
大人の災いは必ず降り注ぐとーーーー
僕は僕の生きる道を探そうと、真夜中の公園を抜け出した。潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く。今の僕は目指すべき道を歩いていると、少しだけ心の中で思っていた。
真夜中の住宅街へ着いた頃、僕は目指すべき扉の前に向かった。着いた場所は真夜中のアパートだった。
『鍵のない扉を開けなさい』心の中で呟きながら、僕はドアノブをゆっくりと廻した。
鍵はかかっていなかった。僕と一緒に大人の成人式へ行った女の子。桃香のアパートの扉を開けた。こんな時間でも鍵をかけていない。僕の考えが正しいのか?それはあとで考えれば良いだろう。
今すべきことは、一歩踏み出す勇気と行動だけだった。
鍵はかかっていない。要するに鍵のない扉と同じなんだ。
部屋の中は、月明かりで神聖な光に包まれていた。そんな光の中で桃香はカーテンを開けて夜空を見上げていた。
「起きていたのか?」と僕が訊く。
「うん、海ちゃんが来るってわかってたの」
上下のスウェット姿で、桃香は窓の前に立っていた。桃香の第六感は的中していたようだ。これは不思議なことでもなんでもない。
僕はゆっくり近寄ると、桃香と一緒になって夜空を眺めた。しばらく何も話さないまま、二人で少しだけ欠けた満月を見つめた。
そして、桃香がそっと僕の手を優しく触った。「冷たい」と桃香は僕の手を握って呟いた。僕の思考のまま、二人はベッドの中へ入った。桃香は僕の手のひらをスウェットの中へ入れた。
桃香の小さな胸はぬくもりを帯びていた。これは、僕の思考を読み取った、桃香の優しさを添えた行動だった。
真夜中の公園で、冷えた手のひらを温めようと桃香は何も言わず、ただただ手のひらの冷たさを温めてくれた。僕は安心したのか、やがて深い眠りに誘われた。
眠りに落ちる瞬間、僕は何かが起きるかもしれないと、遠いどこかで思っていた。
『鍵のない扉を開けなさい』ーーーー
僕は二十歳の長谷川千夏の言葉を頼りに、この部屋へとやって来た。
そして、鍵のない扉を開けた。きっと見つかる。僕の生きる道の先へ。
潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く。
僕は宛てのない道を求めるでもなく、僕の生きる道を求めて、深い眠りの世界へと堕ちた。
第54話につづく
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