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第29話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

甘い香りが強くなったとき、私はあの謎の声を再び聞いた。内緒話みたいな声がパーテーションの向こう側で囁いている。姿は見えないけど、二人が話し合っているようだ。

そして、私は一人の声に見覚えがあった。あの声は私の兄に間違いない。でも、どうして兄が大人の成人式に参加しているのか?


どうして私に言わなかったのか?


奇妙な声に謎は深まるばかりだった。


兄は大人の成人式へ参加してから変わった。見た目とかではなくて、内面的に変わったのだ。優しくて家族思いの兄だったけど、大人の成人式へ参加したあと、家族の誰とでも話さなくなった。

最後に兄と会話をしたのはいつだろうか。私の記憶は薄くなっていた。かれこれ五年ぐらい会っていない。

だけど、兄の声は忘れていなかった。


大人の成人式を主催する大人。旧新成人たちが真夜中に開催すると教えられた。その兄が、旧新成人として参加している。私は鏡に映る自分へ疑問をぶつけた。

もちろん答えは返ってこない。当たり前だけど、大人時代へ踏み込んだ私なら、きっと答えを導ける気がした。

だから、私はルールを守って声は出さない。そっと聞き耳を立てて、その声を聞き取ろうとした。せっかくルールを守ったのに、ここでルール違反をしたらこれまでの苦労が水の泡になる。


それに、私はある人から隠されたルールを教えてもらった義理があった。あの見知らぬポニーテールの女の子。彼女が何者でどんな理由があって、大人の成人式に来たのかは知らない。

でも、私は彼女のおかげで助かったのだ。そうじゃなかったら、今頃私は大人の災いを受けることになっていた。


『あいつはどうなんだろう。幸せなのか。それとも後悔してる』と兄らしき人物が話し始めた。


『後悔してないと思うぜ。だって、あいつの姿は一度も見てないからな』ともう一人の男が答えた。


特徴のない声だったけど、妙にイラつかせる話し方は私を無性に苛つかせた。特に理由とかあるわけではない。生理的に受け付けないのだ。

それにしても、一体何の話しをいているのかしら?まったく意味がわからない……


『あれでも昔は、俺たちと同じ考えだったぜ。でもさ、あいつはあいつで自分自身を認めたんだよ』と苛つかせる話し方の男が言った。


『だったら、僕はまだ認めていないんだろうな。あの頃と何ら変わっていない。変わりたくないと大人たちを否定したんだ』と兄らしき人物が感傷的に話した。


私は、二人の会話をしばらく聞いていた。意味深な含みもあったけど、今の私には計り知れない不感症な会話だった。きっと、私が答えを知らないこともあったからだろうーーーー


僕の思考の中へ、彼女は土足で踏み込んだ。鏡越しに笑う彼女の表情から、苦悩する僕を嘲笑うようにも思えた。鏡の中で、彼女は僕に近づいてそっと手を握った。

これから何が起こるのか、今の僕にはわからない。彼女に言わしたら、僕はまだまだ幼い大人なんだ。マスタードを抜いたホットドッグと同じ。

そんな比喩的に見知らぬポニーテールの女の子は言った。僕の大人時代は孤独感でいっぱいになるだろうか?

不安だらけの僕と手を繋いだ彼女の指先へ、そっと呟いた言葉だった。


ルールを守らなかった僕たちは、一歩手前のまた一歩手前でやめるべきだった。あそこで我慢すれば、会場から外へ出なかったかもしれない。

結果的に外へ出てしまった僕たちは遅いけど、悪あがきのように考えれば、正式に大人の成人式へ参加出来たかもしれない。

結果的に、悪いのは僕たちだったんだね。


見知らぬポニーテールの女の子は何も言わず、しばらく僕の手を握ったまま鏡越しから笑っていた。僕は後悔と不安な気持ちのまま、鏡の中に映る彼女を見つめた。

あのぼやけた声が聞こえたとき、僕は照明の消えた部屋へ移動した。


僕たちの大人の成人式は電球が切れるように終わるのだった。


第30話につづく

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