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第49話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」

一冊の本が音もなく落ちた。静寂すぎる図書館は余計な音さえも吸収するように消した。僕は本を拾い上げると、脚立の上に立つ女性へ手渡した。女性が慌ててお礼を言ってきた。

僕は女性の声を聞いて、微かな記憶を思い返す。ノイズのない綺麗な音域で構成された声。僕の耳にはそんな風に聴こえた。それは幼かった僕が覚えていた声と一緒だった。


無意識で僕は女性を見つめていた。あの頃より短めのポニーテール。切れ長の目に、薄い唇が二つ重なった小さな口。きめ細かい肌は艶やかな滑らかさを醸し出していた。

僕があまりにも見つめるもんだから、女性は作業する手を止めて、話しかけてきた。


「何かお探しですか?」


「はい、あなたを探してました。だから、僕の探しているものは見つかりました」


自分でも驚いた。なんてキザなセリフなんだろうか。美鈴から同じようなことを言われていたと、一瞬頭の中によぎった。

確かにキザなセリフだったし、千夏先生と思われる女性が僕を見て、海野省吾本人だとわかるわけがない。それはここへ来る前から考えていたこと。

実際、僕と会ったとき、千夏先生は気づくだろうかと。それに、僕のことを覚えているかも不安だった。


「なんだろう。新手のナンパなのかしら?」と女性は戸惑いながらも笑ってくれた。


「すいません。でも、あなたを探していたのは本当なんです。僕のことを覚えていませんか?」と正直に言う。

そして、女性の胸元に付いた名札を見た。


【長谷川千夏】と名札には書かれていた。間違いない。彼女は僕の初恋の人で千夏先生だった。幼かった頃の記憶は当てにならないが、彼女はとても美しい歳の取り方をしていた。

それも紛れもない事実で、僕の中で彼女は今も輝いていた。


「ごめんなさい。どこかでお会いしましたか。あなたのこと、正直言って覚えていないの」と千夏先生は脚立から降りて答えた。


「実は、僕の友人があなたを図書館で見かけたんです。それで、僕らが通っていた保育園で、あなたは先生をしていました。間違いでなければ」と僕は簡単に説明をした。


「そうなの。確かに、私は保育園で先生をしていた時期があったわ。でも、けっこう昔のことだから。あなたのことは覚えていないかな。気を悪くさせてごめんなさいね。保育園の先生と言っても、経ったの三年間だけだったしね」と当時を思い出すように千夏先生は言った。


ある程度の予想はしていたので、それ程ショックではなかった。ただ、僕が入園してから、経ったの三年間だけとは思ってもいなかった。

でも、これだけは確認したかった。僕らに教えてくれた、大人の成人式のことを……


「別に気にしないで下さい。僕も友達から聞かなかったら、あなたが僕の先生だったなんて気づかなかったので。ただ、一つだけ確認したいことがあります。だから今日はここを訪ねたんです」


「私にわかるかな。それでも良かったから教えてくれますか」と千夏先生は言ってくれた。


静寂すぎる図書館は、余計な音を遮断してくれていた。僕と千夏先生は、誰もいない本棚の通路で、あの頃を振り返るように、二人だけの時間を共有していた。

それは、僕の独りよがりかもしれないけど、彼女だけは忘れて欲しくなかった。


大人の成人式という異様な世界を……


「僕らに教えてくれた、あの不可思議な世界。あなたは覚えていますよね。大人の成人式という異様な世界を」


潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く。


彼女が教えてくれた言葉。この意味深な言葉と僕の歩く道が、この先の未来で大きく繋がるとは、このときはまったく思ってもいなかった。


そして、彼女が導き出す答えはーーーー


千夏先生は何も答えなかった。その代わり、僕に連絡先の書いた紙を手渡してくれた。仕事中ということもあったので、後日会って話しましょうという運びになった。


その日、僕は図書館をあとにして桃香のアパートへ向かった。桃香にも今日の出来事を話そうと思っていた。僕らを引き合わせた大人の成人式や千夏先生の事について聞きたかったからだ。

実際、桃香と大人の成人式について詳しく話しをしていなかった。だから、僕はアパートに向かったんだ。

決して、それ以上のことは考えていなかった。


だけど、僕に降りかかった大人の災いは、危険で棘のある道を歩かせるのだった。空には少しだけ、薄気味悪い月が浮かんでいた。


第50話につづく

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