第75話「潮彩の僕たちは宛てのない道を歩く」
夢の中で出会った瓜二つの美鈴を考える。痛みのある真実は、僕に耐えられる痛みじゃなかった。その真実だけが胸に残る。あれから一週間以上が過ぎていた。僕と言えば、美鈴と住んでいたマンションに戻ることはなく桃香のアパートに居た。図書館も怪我のため、ずっと休んでいた。理由は正直に怪我をして休むと話していた。
何度か千夏から連絡があったので、僕は足を踏み外して階段から落ちたと嘘をついた。たぶん嘘だとバレているだろう。そんな気がした。だけど、今の僕にとってそんなことはどうでもよかった。ただただ心を休ませたいと思っていたから。
美鈴から連絡は一切なかった。もう自然消滅なんだろう。初めての彼女は案外こんな形で終わってしまうものなのか。あれだけ愛しているとか交わしていたのに。愛とは脆いものである。
そもそも僕に責任はあったけど……
僕と美鈴が招いた結果なんだ。もう懲り懲りだよ。見知らぬ男から殴られて、痛みある真実を知らされて終わりーーーーとエンドロールが流される。登場人物はわずか数人だったけど。
「ただいま」と桃香がアパートに帰って来た。
帰って来るなり、桃香は僕のそばに来て鼻の傷を見た。まだ傷跡は残っていたが、もう痛みは消えていた。若い証拠である。それでも桃香は心配そうに顔を覗かせていた。
そして、思考を読み取り唇を重ねてくれるのだった。こんな風に心が壊れた時、唇の触れ合いは癒しの力があった。もっと口づけをしたいと思うほど、桃香の柔らかい唇が重なり熱い抱擁に包まれた。
「だいぶん良くなったね」
「お腹空いたな」
「待ってね。すぐに作るから、今日は海ちゃんの大好きなオムライスだよ」桃香はそう言って、台所に立って料理の準備を始めた。
僕は其の間、読みかけの小説を読んだ。数分後、食欲のそそるいい匂いが鼻先を刺激した。甘酸っぱい感覚が口の中で広がる。食欲と性欲は同じかもしれない。僕は本能のままに行動へ移す。小説に栞を挟んでテーブルへ置いた。キッチンに立つ桃香の後ろ姿を見つめては食欲と性欲に気持ちが欲情する。
思考を読み取る桃香は感じているのだろう。フライパンを熱した火を止める。
そして、後ろから近づく僕を見てからスローモーションの動きで腕を伸ばした。僕は桃香を抱き寄せると、読みかけの小説の内容を頭に残しながら口づけした。肌と肌の触れ合いは癒しの行為。何度も何度も繰り返した口づけは、僕の欲情をさらに熱くさせた。
甘酸っぱい味の汗ばんだ肌を味わい、僕は桃香を抱きしめた。
僕の日々は食欲と性欲で送られていた。僕のその後は何も変わっていなかった。
そして美鈴はどうなったのか?
美鈴のその後は……
思い込みの激しい女と暴言を吐かれた。幸せだった日々はベルリンの壁が崩壊するように崩れ落ちるのだった。私は理由も告げずに店を辞めて、借りていたマンションも解約して引き払った。それが一ヶ月前の出来事。
漫画喫茶を転々として過ごしては、あの夜のことを考える。確かに私は下着を履いていなかった。海ちゃんから終わりと言われても仕方がなかった。それが事実だとしても記憶のない過去は蘇らない。
あの男に直接聞きたかったけど、正直な気持ちは二度と会いたくなかった。大体が初めから奇妙だった。私はあの男と初めて会ったとき、まったく覚えのないことを言われたのだ。
男が初めて店にやって来た日……
「あれ?君ってさ、笹釜公民館の成人式に来てたよね。へぇ、まさか君が働いている店で出会うなんて。もしかして俺たち運命的な出会いなんじゃない」
なんて言われても、私は男の顔を見てもまったく覚えがなかった。確かに私は笹釜公民館の成人式に参加してたけど、出会ったのはお前じゃない。私が運命的な出会いをしたのは海ちゃんだった。
だから男の第一印象は最悪だったし、名前さえ覚えていない。正直なところ、始めから覚える気もなかった。どうせこんな男、すぐに辞めると思っていたから。
「美鈴ちゃん。今夜、あの子の歓迎会をやるんだけど、もちろん来てくれるよね。私一人だと辛いし」と深田奈津子さんが言ってきた。
本音を言うと、男の歓迎会なんて行きたくなかった。歓迎もしていないし、男の第一印象が最悪なこと。そして、発言が嫌だったからだ。でも、奈津子さん一人に任せるのも可哀想だったので仕方なく参加することにした。
ここまでは私の記憶にハッキリと残っていた。居酒屋で歓迎会をしたことも覚えている。そのとき、男と会話をしているが記憶になかった。きっと大した内容じゃなかったのだろう。
それから二次会は奈津子さんの家に行った。それも覚えている。
だけど……
頭にヘッドホンをして音楽に集中した。いつまでも漫画喫茶で過ごしてる場合ではなかった。私は男の顔を思い出すこともなく、予定のない明日を考えた。消え失せた記憶を憎んでいた。それだけが今の私を維持してるような気がする。
海ちゃんに会いたかった。会って抱き締めて欲しかった。そんなことを思いながら、あまり意味のない音楽に耳を傾けるのだった。
第76話につづく
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