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「みんな愛してるから」第一章 夏織⑥

 それからの一ヶ月あまりは辛いものだった。
 身に覚えがないのに、役所のメールアドレスには、夏織のことだとわかるようにクレームが入る。電話も同様だ。

 ゆっくりはっきり、近くにいる同僚にも聞こえるように対応をしているというのに、誰もかばい立てしてくれない。

 その度に夏織は叱責され、どんどん信用をなくしていく。絶対に百合子のせいだとわかっているのに、彼女はなかなか尻尾を掴ませない。

 すでに文也に相談済みだが、彼が百合子に話をしても、はぐらかされてしまったという。

 証拠は? 

 そう返されれば、夏織の話を聞いて一方的に判断しているだけの文也は、百合子をそれ以上、問い詰めることはできない。

 窓口に立てばクレーム沙汰になる。かといって事務作業に回しても、周囲の目は厳しかった。無論、ミスの大部分は夏織のせいではなかったが、周りからのプレッシャーで、本当に凡ミスを繰り返してしまうこともあった。

 次第に夏織には、子供でもできるような簡単な仕事しか回ってこなくなった。

 課長は「古河さん、お茶」と、夏織がするのが当たり前だという様子で、命令してくる。今までは、自分で淹れるのが当たり前だったのに。

 給湯室に入ると、朝一番に沸かしてあったはずのポットの電源が切られていて、すっかり冷めてしまっていた。

 ここまでするのか。

 夏織はイライラしながら再沸騰のボタンを押し、茶葉の入った缶の蓋を、カポカポと開け閉めした。

 遅い、茶も満足に淹れられないのか。

 明確に中傷されるわけではないが、彼らの目が夏織を罵ってくる。

 ポットの中ではプクプクと泡が弾け始めた。

 四年制の大学を卒業して、こんなことがしたいわけじゃないのに。母親世代のキャリアウーマンたちの不満が、今の夏織には、手に取るようにわかった。

 茶葉を急須に入れて、湯飲みを用意する。

「古河さん。課長、もうお茶いらないって」

 シュンシュンと音を立てて、もうすぐ沸騰するポットを今か今かと待っていたら、百合子が後ろから、声をかけてきた。

「こんなに時間がかかるなら、自分でコンビニに買いに行った方が早いって言ってたわよ」

 彼女の口調は、さらりと歌うようだった。

 カッとなって、「あなたのせいでしょう!?」と、夏織は叫んだ。百合子はすらっとぼけて、「何のこと? お湯を沸かし忘れたのは、古河さんでしょ?」と言った。

「とぼけないで!」

 夏織が詰め寄ると、百合子は「ああ怖い」と芝居がかった様子で、身体をくねらせた。女優が舞台でやれば、セクシーかもしれないが、豚がやっても滑稽なだけだ。

「殴るの? 殴ったら言いつけるからね!」

 誰に、と百合子は言わなかった。だが夏織にはわかった。対象は上司ではなくて、文也だ。

 血の気が引いていくのを感じた。手の先が冷たくなって、震える。

 婚約者が職場で暴力沙汰を起こしたら、優しい文也であっても幻滅して、婚約破棄を言い渡すに違いない。彼は女に夢を見ているから。

 百合子は勝ち誇った笑みを浮かべ、給湯室を大股に去って行った。

「お茶、もういいのか……」

 ひとまず戻らないと、また嫌味を言われてしまう。

 一歩踏み出した瞬間に、夏織の意識はすっと闇に引っ張られて、遠のいていった。どたん、という音を立てて倒れる。

 立てない。どうしよう。

 もう、どうでもいいか。

 夏織は目を閉じて、すべてを闇に委ねた。

 ポットの湯が沸く音は、すでに止んでいた。




「おめでとうございます」

 給湯室で昏倒したところを発見され、早退した。病院を訪れた夏織に対して、医師は祝福した。最後に回されたのは婦人科だった。

 ストレスなのか、それとも何か大きな病気なのか。その二択しか答えを持ち合わせていなかった夏織は、虚を突かれて、反応できなかった。

 おめでとう、の意味を自分の中で噛み砕いてから、夏織は「あの……」と、医師の言葉の続きを促した。

「妊娠十二週から十三週ですね」

 妊娠? 十二週? 誰の子? ……私の子だ。

 医師は何の「妊娠」という二文字を、何のわだかまりもなく、あっさりと告げた。当然と言えば当然で、レイプされた結果でもなく、夏織は女子高生でもない。

 二十八歳。夏の終わりには、二十九歳。ひと昔ふた昔前ならば、行き遅れとひそひそ話の対象になるような、立派な大人だ。

 医師は、夏織のお腹の中に育ちつつある子を、望まれない子だとは思わない。

 ほくほく笑顔の医者に、夏織は頭を下げた。堕ろせないんですか、とは聞けないまま、診察室を出て、ぼんやりと支払いを済ませた。

 病院の出入り口を出てすぐに、夏織はスマートフォンを確認した。文也から何通もメッセージが来ているのに気がついたが、真っ先に連絡をしたのは、明美であった。

『どうしよう。妊娠しちゃった』

 まだ日が高い時間だったが、すぐに既読がついて、祝福のスタンプが飛んでくる。

『おめでとう。何が、どうしようなの?』

 その問いかけに、夏織は答えなかった。

 明美に連絡をして、どうしたかったのだろう。夏織は病院の軒先で、ぼんやりと考えた。

 彼女に根掘り葉掘り聞かれたら、確実に墓穴を掘ることになると、わかっているのに。付き合いが長い彼女は、夏織の学生時代からのことを知っていて、ピンと来るに違いない。

 どうしようもない。文也に話さないわけにはいかない。彼は、婚約者だ。そして、お腹の子供の……父親。

 深呼吸をして、文也のメッセージに返信をする。

『お話があります』

 丁寧な文体になったのは、心の奥底のしこりが原因としか、考えられなかった。

 喫茶店に姿を現した文也は、顔を強張らせていた。余命宣告を受ける患者のようで、滑稽だ。

 向かい側に座った文也がコーヒーを頼んだのを確認して、夏織は声を絞って言った。

「……妊娠、してるんだって」

 文也は一瞬、虚を突かれた表情を浮かべて、「本当に?」と言った。

 こういう場面で、男の本性は表れるのだと、夏織は知っている。

 過去に付き合った男たちに、エイプリルフールの冗談で、「子供ができたみたいなの。産んでいい?」と尋ねるのは定番のいたずらだった。その反応は、皆それぞれではあったが、喜んでくれた男なんて、一人もいなかった。

 いや無理、と金を出そうとした男はまだマシな方で、本当に俺の子? と言った奴までいた。

 文也だけは違うと信じていた。けれど、このきょとんとした顔を見れば、予測が違っていたのだと青くなる。

『誰の子?』

 今回は、嘘ではない。実際に夏織は子供を身籠っている。一人で産んで育てる勇気は、ない。

 だが、視線をテーブルに落としている夏織の頭上にかけられたのは、喜色に満ちた声であった。

「やった! ありがとう、夏織さん。すごく嬉しいよ!」

 顔を上げた夏織の目に映るのは、正真正銘の笑顔を浮かべた文也だった。おっとりとした彼が珍しく、興奮を隠さずに早口になっていた。

 そんな彼を見ていて、夏織の胸には温かい気持ちとともに、苦いものが広がっていく。

 初めて、夏織は彼のことを愛おしいと思った。流れで結婚前提の交際を始めることになったが、親しみは覚えていても、愛はさほどなかった。

 今まで付き合ってきた男たちとは、まるで違う。疑うことを知らない、愛すべき男なのだということを知れば知るほど、夏織は自らの過去を、消し去りたくなる。

 夏織が口を開く前に、真顔になった文也が、夏織の手を握った。温かい掌から、彼の愛情が伝わってくる。

「結婚してください。僕を、きちんとお腹の中の子のお父さんにしてください」
「あ、はい」

 間抜けな返事をするのに時間を要したのは、文也の言葉の真意を、深読みしてしまったからだった。

 まるで、夏織の腹の中にいる子供が、自分の種によるものではないことを、疑っているような、含みのある言い方だと思ったのだ。

 だがその後、「いつ入籍しようか?」とわくわくしているらしい文也の顔を見て、夏織はほっと、肩から力を抜いた。

 大丈夫。彼は私を疑ったりなんてしない。一ミリたりとも。そう、お人よしで、恋人の言葉ならばなんでも信じてしまうんだから……。

「夏織さん? 話、聞いてる?」

 話しかけられて、夏織ははっとした。マタニティブルーかな、と笑われた。

「ごめん。ぼーっとしちゃって」
「ううん、いいよ。それで、これを機に、まずは一緒に住みませんか?」

 文也曰く、同棲をしていた方が、結婚の準備もスムーズだろうということだった。なるほど、確かに離れているよりも、いつも一緒にいる方が、合理的だ。

「それと」

 続いての提案は、同棲よりもよほど、夏織を喜ばせるものだった。

「仕事、辞めてもいいよ。ううん、違うな。辞めてください」

 仕事を生き甲斐とする女性には禁句だろうが、夏織はそうではない。それに文也は、夏織を束縛しようというつもりで言ったのではなかった。

「百合子さんと一緒にいたら、ストレスでしょう。お腹の子にも、夏織さん自身にも、悪影響だから。ごめんね。僕がもっときちんと、守ることができればいいんだけど」

 と、謝罪された。夏織は首を横に振った。文也はよく、夏織のことを信じて守ろうとしてくれた。それだけでよかった。

「今日倒れたのだって、赤ちゃんができてたからもあるだろうけれど、だいたい百合子さんのせいでしょう?」

 その通りだ。辛い記憶に、夏織が涙目で頷くと、文也は細く長い溜息を吐いた。

「すぐ辞めて、うちに来てください」
「はい」

 夏織は大きく頷いた。

 妊娠したと聞かされたときの陰鬱な気持ちは、鳴りをひそめていた。


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