留学日記『当たり前が刺さった』編

UCLAのFallセメスターで受講中の3つの授業。
どれも興味のあるものばかりですごく面白いけど、中でも最も興味深いのが、国際開発学の授業。

introductionレベルで、基本的な知識を得られると同時に、ケーススタディ多めで実践的でもある。

今日やっとWeek1の授業が終わったばっかりなのに、これで留学終わっても文句なしなんじゃないかというくらい濃い内容の講義とディスカッションだった。

今日の講義で、3つの印象的な教授の言葉があったので、忘れんうちに書き残す。



1つ目。

"…When it comes to the development of South Korea, we cannot miss its history of colonization.
 South Korea was once colonized by Japan…"

'development'をどう定義するかというテーマで、戦後の韓国の経済成長をケーススタディとして扱った場面。

カンナムスタイルの動画を見させられて、なんかすごいリラックスした感じの雰囲気にあったのもつかの間、この言葉が先生の口から発せられた瞬間に、鳥肌が立った。

そうか、日本以外の国から見たら、1910年の日本による韓国併合は、当たり前に、疑いの余地なく、紛れもなく、'colonization'なんだと。

確かだけど、日本の日本史の教科書では、「併合」や「統治」という言葉だけで、「植民」という言葉は使われていなかったと思う。一方で、日本の世界史の教科書では、ヨーロッパ諸国を初めとした列強の海外進出を、「植民」と表現する。まるで、韓国併合は、欧米列強の帝国主義とは違う、と一線を画すかのように。

また、もし自分が、日本の教科書を使いながら外国人に日本史を教えるってなった時、自分は韓国併合をどうやって説明するだろう?ってふと思った。たぶん、'colonize'というワードは浮かんでこないだろうと直感的に思った。

200人いる受講生の中、韓国人は3, 4人(先生が手を挙げさせた)。日本人は名簿見て知っている限りでぼく含め2人。このテーマで講義が進んだほんの5分ほどの間、まるで韓国人と日本人のぼくたちが壇上にあって、ぼくたち側にだけ冷たい視線が集まっているような気分だった。

実際はそんなことはない。ぼくが日本人だって確信している人なんか、教授含めて誰もいない。ここにはそれだけ多様な人がいるから。日本人だからって目立つことはない。それでも自分が浮いているって感じたということは、やっぱりどこかで日本は日本史の見方を間違えている部分がないかと潜在的に意識していたからだろうな。

歴史はただの事実の列挙だと思われがちだけど、見る視点と見る側の意識によってかなり変わってくるということを改めて感じた時間だった。歴史を学ぶ一人の人間として。

2つ目。

"Week1の講義はこれで終わり。この授業をdropする(履修しないことにする)かどうかは、あなたたち次第です。
 ですが、1点だけ覚えておいてください。
 international developmentの世界で重要な3つの要素のうちの2つがpovertyとinequalityであることは今週学びましたね。
 ご存じの通り、世界には十分または質の高い授業を、受けたくても受けられない人たちがいます。一方で、あなたたちは、ただあなたの出身国に生まれたというだけで、ただあなたの親の下に生まれたというだけで、UCLAという世界に名をはせる大学で勉学に励む機会を与えられています。もちろんここに来る資格を得るためのあなた方の努力は、認められなければなりませんが。
 このクラスをdropするということは、それを得たかった誰かが、自分では変えられない環境を理由に得られなかった機会をごみ箱に捨てるようなものです。ましてや、international developmentは、そうした'誰か'を救うための学問です。このような、一理には偶然に近くあなた方が手に入れた機会を、'誰か'のために最大限活用する「責任」も皆さんにはあることを、決して忘れないでください。"

もはや言葉というよりこれだけで講義レベルの重みだが。矢吹訳なので多少のニュアンスの違いはあると思うけど、こんなことを言われた。

いろんなところで言われるようなことだし、場合によっては綺麗ごとじゃない?と言われる内容でもある。
でも、そんなことは教授もよくわかっていると思う。

それでもあえて、こういう言葉を並べてぼくたちにモチベーションを与えようとした教授の言葉に胸を打たれた。

勉強できることは当たり前のことではないんですよ!ってよく言われる。
だけどそれが体感できる場所はこれまであまりなかった。ぼくは日本で生まれ日本に育った日本人だから。povertyが理由で教育を受けられない人が比較的少ない日本だから。

アメリカに来る前、円安やこちらの物価高騰などで、まともに生活していけるかがほんとに不安だった。まともなご飯を食べられるか、そんな生活で1年間乗り切れるか不安だった。結構ガチで。笑

こんな心配も物凄く愚かだったなと思った。
「いやいや、そんな心配しなくても大丈夫でしょ笑」という愚かさではない。

UCLAで勉強できる。それだけでもなんと贅沢なこと。
だったら一日パン1枚だろうと、水コップ1杯だろうと、死に物狂いで勉強しないといけない。

それが、international developmentを勉強する者の使命だ、
と言われたような気がした。

教授は最後に毎週のリーディングのことにも触れた。
膨大な課題量、それに毎週触れられるのだって贅沢なこと。しっかり読んで授業に臨んでくれと。

なんかほんとに基本的なことだし、当たり前のことのように思うけど、頭で理解するのと体感するのは違う。
「勉強できる、なんて贅沢なこと。」
それを体感できただけでも、UCLAでinternational developmentを学べて良かったと思う。

3つ目。

"私も、皆さんと同じように十分で質の高い教育を受けてきた人間です。
 先ほど、international developmentは、私たちが当たり前のように得ている機会を得られい'誰か'を「救う」学問だと述べました。私は非常に傲慢な人間であるように感じます。なぜだかわかりますか?
 国際開発の現場において、「救ってあげる」や、「手助けをしてあげる」という考え方が最も危険です。
 international developmentは、本来「共に発展する」ための学問であるべきなのです。internationalのinterという言葉が示す通りです。相互作用によってなされるべきものなのです。"

2つ目の話に続けての言葉。

正直「共に発展する」という言葉にあまりピンときてない。まだ。それは今後の授業で分かっていくと期待する。

でも一つ明らかなのは、「~してあげる」という言葉(矢吹訳だけほんとにこのニュアンスかどうか不明、でもきっと合ってる)が表すように、この上から目線な潜在意識がもう、inequalityそのもの。inequalityを是正することも一つ大きなテーマのinternational developmentにおいて、この意識は少しずつでも変えていくべきだという教授のメッセージだったと思う。



international developmentをこれから学ぶ上でも、なんか普通に生きていくうえでも、大切な学びをした気がした。
まだ留学始まって2週間も経ってないんだけど!1か月くらいはいる気分!濃い!

2022.9.28
留学日記『当たり前が刺さった』編

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?