記憶を紡ぐ糸 第2話「ある日常」
友一さんの家は、六階建てのマンションにある三階の一室だ。築十四年らしいのだが、まるで新築のように綺麗だ。
「若葉ちゃん、調子はどうだい?」
友一さんの家に住むことになって一ヶ月が経ったある日の朝、友一さんはいつものように私に状態を聞いた。
「いつも通り……かな。まだ記憶は思い出せそうにない」
友一さんが作った卵焼きに箸を伸ばしながら答える。彼の卵焼きは砂糖を多く入れているせいか、とても甘い。いつも口の中で、ボタンを掛け違えたかのような違和感を覚える。おそらく、記憶を失う前の私はしょっぱい卵焼きが好きだったのだろう。
友一さんはとても良い人だ。階段の下で倒れていた私を助けてくれたし、記憶を失った私を引き取ってくれた。彼にはとても感謝している。
「今日は病院に行く日だよね?」
友一さんは、テレビのニュースに耳を傾けながら尋ねる。
「うん、そうだよ」
「そうか。じゃあ、家を出るときはしっかりと鍵を閉めて行ってね」
「分かってます。あんまり子ども扱いしないでくれる?」
私がそう言うと、二人で顔を見合わせてくすっと笑った。
友一さんが仕事で家を出ると、私は一通りの家事を済ませることが日課になっている。家事をする中で、何か思い出すかもしれないという私の意見が反対されずに通ってやっているが、全く思い出せないでいる。
やはり今日も思い出せない。思い出そうとすると、頭に鈍痛が走る。果たして、私が記憶を思い出す日は訪れるのだろうか。
一通りの家事を済ませて、十一時ごろに私は家を出て病院へ向かった。バスに十分程度乗ったところにあるのが、私が通っている大学病院だ。威圧するかのように大きく、要塞のようにどっしりと構えている。
私は病院の中に入って、エレベーターに乗る。五階で降りて、真っ直ぐ歩いた後に三つ目の角を右に曲がる。そこにあるのが、私が受診する心療内科だ。
順番を待っている人が少なくて、いつもよりも早く名前が呼ばれた。若い女性の看護師に名前を呼ばれて、私は診察室へ入る。私の担当医である相沢(あいざわ)浩二(こうじ)先生は、いつもよれよれの白衣を着ていて、どこか気だるそうな雰囲気を醸し出しているが、見た目と違ってとても熱心な先生だ。
「高宮さん、何か思い出せましたか?」
一通りのカウンセリングを終えた後、相沢先生は私の目を見ながら、彼独特のねっとりとした口調で聞く。
「いえ、まだ何も思い出せません。何か思い出そうとすると、頭を鈍器で殴られるような感じの痛みがします」
「そうですか。記憶は完全に失われたわけではありません。焦らず、時間をかけて思い出していきましょう」
相沢先生は微笑みながら言う。彼のこの言葉に、私はいつも希望を覚える。この先生が私の主治医で良かった。必ず失くした記憶を思い出すだろう。根拠のない自信かもしれないけど、何故かそういう気持ちになるのだ。
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