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色彩が薄らいでいくのを止めろ

 世間が新型ウイルスで騒がれているこの3月、僕は5年間通った大学を卒業した。ウイルスの影響で卒業式も無くなってしまったし、大学やゼミが主催する卒業パーティーも全て無くなってしまった。まあ僕は現役ではないからまだいいけれど、現役で卒業する人たちは酷く悲しかっただろう。それでも僕たちは、この混沌の連続の中で生き続けていかなくてはならない。そして僕はこれからの世界に興味が持てない。

大学生活は人生の夏休み論

 大学を卒業するということは、すなわち学生というステータスがなくなり、一般的には社会人になるということである。不思議な大人たちは、大学生活は人生の夏休みなどと表現したりする。この表現が僕はあまり好きではないが、最近になってある側面から理解できるようになってきてしまった。

 以前は僕はこの表現が物理的な時間という概念そのものを表していると考えていた。しかしながら、恐らく彼らはその特定の時間に内包されるものを示しているのだろう。つまりは、仕事をしなくても批判されず、朝起きれなくても大それた問題にはならず、空きコマで近くを友達と散歩して見たり、大学で初めてできた彼女と半同棲をしてみたり、平日のいかなる日でもお酒を飲んでカラオケで歌い、夏には海にドライブをして、冬にはスノボーに行く。そんな生活そのものである。

 このような生活は高校時代にカナダにいた僕がまさしく求めていたものであり、このような時間を持つために帰国したと言っても過言ではない。(ある側面では愚かな決断だろうが。)

 確かにこの時間に内包されているものはとても楽しく感じたし、気持ちよかったし、なによりストレスがなかった。それはまるで夏休みのようなワクワク感だったし、そのような観点では不思議な大人たちが言うこともわかる。しかし、それを人生の夏休みと表現してしまって本当にいいのだろうか?それじゃあ人生の夏休み以外でこのような時間はもう持てないのだろうか?本当にそれでいいのかよ?

色彩が薄らいでいく

 さてそんな大学生活を含めたこれまでの、24年間をふり返ってみると、必ずしも楽しいことばかりではなかったことが分かる。精神病棟に入ったこともあるし、死のうとしたこともあるし、雪山の中でもう本当にダメなんだなと感じた瞬間もあった。つまり、夏休みを含めた時間はこのような時間も、もちろん内包していたことになる。

 では、どうして不思議な大人たちはそれでもなお、大学生活を夏休みと呼び、"社会人"特有の厳しさを滔々と学生に語るのだろうか。学生生活なんてあっという間だよ、20代なんてあっという間だよと言ってくるが、本当にそれは真実なのだろうか。

 もちろん、"社会人"になってからの生活が身体的にも、精神的にも学生の頃と比較すると厳しいということもあるだろう。お金を稼がないといけないし、嫌なことを嫌と言えないこともあるだろう。ただ、僕は思う。彼らの一番の苦痛は生活における色彩が日々薄らいでいく感覚なのではないかと。

 学生の頃は、毎日友達と会い、日々に大きな変化があった。しかし、社会人になると毎日オフィスに通勤し、内容は微かに違うものの、似たような業務を行い、1日が終わり、1週間が終わり、1ヶ月が終わり、気づけば1年が終わって歳をとっている。このような時間の流れ方は色彩を持たせるのではなく、少しずつ薄くなっていく類のものである。

 この時間の流れからくる感覚、すなわちそれは、「あれ、自分ってここで何してるんだっけ?なんのために生きてるんだっけ?」という感覚こそが社会人の圧倒的な苦痛なのではないかと僕は仮定する。

 それではこの色彩の薄らぎを防ぎ、むしろ彩りを付与するような時間を社会人になっても維持することができれば、社会人の苦痛はなくなるのではないだろうか。つまりは、人生総夏休み化である。

人生を夏休み化する方法

 ではどのようにすれば、日々に色彩を与えられるのかを考えてみよう。考え方は非常にシンプルである。大学生活がどのようにして、充実していたのかを思い出せばいいだけだ。

 1つ目は、多くの人と出会い、好きな人といるということである。学生時代には、授業、サークル、バイト先など様々な場所で多くの人と知り合う機会があった。その中で、普段なら知り合わないタイプの人とも出会い、自分の交友関係が大きく広がった。しかしながら、社会人の話の多くに、出会いがないという話が出てくる。社内ではもちろん人と関わるが、それも仕事関係があるため、純粋な友達のように触れ合うのは中々難しいのはないか。異性間に注目して見ても、出会いは少なく、だからこそ婚活パーティーや合コンなどが多く開催されるのではないだろうか。教員同士の結婚が多いのも頷ける。

 それに比較してみると、自分はシェアハウスに入ったり、頻繁に足を運ぶコーヒースタンドで会話をしたりして大学以外の交友関係がかなり増えた。このような人たちはとても魅力的であり、日々に色彩を与えてくれていると思う。社会人も仕事だけが人生ではない、それ以外のことに目を向けて友達を作ると楽しくなるかもしれない。

 2つ目は、好きなことを見つけて極めるということである。僕はこれまでの人生で、度々自分の存在意義を自問してきたが、その際の多くの結論は好きなことをして生きていくことは存在意義となりえるし、それでいいではないかというところに着地した。つまりは、自分の好きなことは自分だけのものであり、自分だけのものを持っていれば、それは自分の存在意義となるということである。仕事中に、「あれ?わたしなにしてるんだっけ?」と自問してしまう時間が訪れた場合にも、「自分の好きなことをするために生活しなきゃいけないし、お金が必要だから働いているんだ!」と考えることによって、今自分が行なっている行動が明確になり、自問ループから抜け出しやすくなる。

 しかし、好きなことを見つけるのは結構難しいというのも事実である。自分が意識していなかった部分にこそ、本当に自分がハマるものがあったりするわけで、それがどこにあるかは人それぞれだ。そのハマる部分を探すには、とにかく色々な物事に自分を触れさせるしかないと僕は思う。

 これらの2つから言えることは、とにかく外に出て新しい人たちと出会い、いろいろなことを試してみないと人生の色彩は付与されないということだ。時間を犠牲にして働いている社会人こそ、この悩みを持っているだろうが、とりあえず外に出よう。外に出る時間もないほど働いて、自問ループにはまっている人は、おそらくその仕事はあまり健康的ではないのではないだろうか。

まとめ

 このように、本記事では社会人生活もただただ色彩が薄まっていくのではなく、日々の時間の使い方によっては色彩の付与ができる可能性を示唆してきた。なにも行動しなければ、なにも生まれない。それは当たり前と言えば当たり前なのだが、仕事に忙殺されると見えなくなってくることかもしれない。

 人生の夏休みと言われる大学生活だが、社会に出てからも夏休みに内包されるものは引き続き継続して享受することができる。人生の夏休みを学生生活で終わらせてしまって本当にいいのか。あなたも意識改革から人生総夏休み化計画を立てて見てはいかがだろうか。

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