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世界一周 8日目 残酷な歴史を知った日

カンボジアがスマホが使えず、しばらく投稿できずにいました。

今回は少し真面目に文章を書きます。
カンボジアの歴史的大虐殺が起こった跡地であるキリングフィールドで目にして思ったことを書きます。

カンボジア人がガンボジア人を騙して捕まえ、朝5時から夜10時まで働かせて食糧も与えず、少しでも政府の政策に反対的な態度や言動を示せばその人とその人の家族を皆殺し。性別や健康状態、男女子供の区別もなく。

当時のカンボジアは内戦や内紛、そしてベトナム戦争でのアメリカからのとばっちりで国力を失いお金がなく、そのため殺しに使われる道具は銃の様な高級なものではなく畑仕事で使う様な鍬や斧で何度も頭部も殴り続けました。

慰霊塔に残されていた犠牲者の方の頭の骨には、幾つもの穴が空いていました。

よく見るとオレンジと青のシールが貼ってあります。赤が男性、青が女性の頭の骨だと書いてありました。

キリングツリーと呼ばれるここでは、多くの赤ちゃんが殺されたそうです。両足を掴まれ、この木に頭をぶつけられて殺されたと、ナレーションの方が教えてくれました。

最初にこの木を見つけたとき、木は血で赤く染まっていたそうです。

(Google翻訳)

トラックストップ

ここは、トゥール・スレン刑務所(S-21)や国内各地から絶滅の被害者を運ぶトラックが停車した場所です。トラックは月に2、3回来ます。各トラックには 20 人から 30 人のおびえた、目隠しをされた無言の囚人が収容されていました。 トラックが到着したとき、犠牲者は直接 ピットで処刑されるか、拘留されるために送られました 近くの暗くて暗い刑務所。 1979 年 1 月 7 日以降、1 台のトラックが残っていましたが、それ以降は撤去されています。
(Google翻訳)

暗くて憂鬱な拘留

ここは、TUOL SLENG (S-21) や国内の他の場所から収容された犠牲者が移送された場所でした。通常、トラックが到着すると、犠牲者はすぐに処刑されました。ある日、処刑される犠牲者の数が 1 日 300 人を超えるまでに増えたため、死刑執行人は 1 日で処刑しようとして失敗しました。そのため、彼らは翌日処刑のために拘留されました。留置所は、亜鉛メッキ鋼の屋根を備えた木材で建設されました。その壁は2層の平らな木材で作られ、暗くなり、囚人がお互いに見えるのを防ぎました.残念ながら、暗く陰気な拘留は 1979 年に解体されました。
(Google翻訳)

死刑執行人のオフィス

ここは、死刑執行人がチュンエクに常駐して働いていた場所です。オフィスと殺戮場には電力が備え付けられていたため、彼らは処刑を行い、犠牲者が夜間に現場に同行した名簿を読んで署名することができました。
THE CHEMICAL SUBSTANCES STRAGE ROOM

ここは、DDT…などの化学物質を保管する場所でした。死刑執行人は、処刑後、これらの物質を犠牲者の死体に一気にまき散らした。この行動には 2 つの目的がありました。1 つ目は、殺戮場の近くで働く人々の間で疑惑を引き起こす可能性がある死体からの悪臭を取り除くこと、2 つ目は、まだ生きている犠牲者を殺すことでした。化学物質貯蔵室は1979年に消失。
キリングツール保管室

ここは、枷、脚鉄、鉈、ナイフ、鍬、鍬、鍬、鉄製の牛車の車軸などの殺戮道具が保管されていた場所でした。貯蔵室は、亜鉛メッキ鋼の屋根を備えた木材で建設されました。これらのツールは 1979 年に失われました。
独房。夜になると蛇やミミズが部屋に入ってくる。
150人の遺体が見つかった場所。
450人の遺体が見つかった場所。
木は吊るす道具として使われた 処刑中の被害者のうめき声を避けるために、音を大きくする拡声器

この木が働く人々にとって唯一の楽しみだったそうです。この木から流れる音が過酷な労働を強いられる人々を元気づけました。しかし現実にこの木から聞こえていた音は、殺された人々の悲鳴声だったのではないかと言われています。

目の前で家族を殺された人。
自分の処刑状を自分で書かされ、やりたくなくても同胞を殺さざるを得なかった人。反抗すれば自分が殺されてしまうからです。

15歳でなんの罪もなく刑務所に入れられた少年は、嘘の罪を自らでっち上げ土下座して許しを乞うという行為を毎日させられました。嘘が尽きると殺されてしまうそうです。

一緒に刑務所に入れられていたお爺さんが毎日看守に「この子を解放してほしい」と頼み込みました。ある日少年は解放され、代わりにお爺さんが殺されました。

数十人の男に性的暴行をうけ、裸で野原に捨てられた人。

カンボジアの歴史にこんなに残酷な出来事があったなんて知りませんでした。それもそう遠くない過去に。もしあの時殺されていた赤ちゃんがいも生きていたら、今は40代後半ぐらいの年齢だと思います。

正直知ったことをどのように受け止めれば良いか分かりません。どう解釈すればいいのかもわかりません。

ただただ残酷で、面食らいました。

前回の記事でカンボジアの子供達に腹を立ててしまっと書いたけど、仕方ないことなのかもしれないと思いました。

そういう残酷な虐殺の生き残りの子どもたちが今の親世代なので、教育が行き渡っていないのも仕方ない事なのかもしれないと思いました。

怖かったです。キリングフィールドでかつて450人が埋められていた場所や、頭を殴られたときに折れた歯を見た時、日本語のナレーションが当時の様子を詳細に説明してくれました。

考えられないし、想像したくなくても勝手に当時を想像してしまう。当時を思うと悲しくなります。

どんな思いで日々を生き抜いていたのか。
どんな思いで殺されたのか。
どんな思いで、今日まで生きてきたのか。

知りたくなかったとは思いません。知れてよかったです。カンボジアに来て正解でした。

命の尊さを、身に沁みて感じました。

今自分が立っている場所で何千何万という人が亡くなったんです。


夢とか自由とかそんなことよりもっと大切な

『命』

について、教えてもらいました。

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