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Don't look at yourself through their eyes. あいつらが見る目で自分を見るなよ

掛川にあるオーセンティックバー"Ringokan"の壁に、こんな書き込みがあった。

Don't look at yourself through their eyes. 
「あいつらが見る目で自分を見るなよ」

名のあるシンガーが残したものらしい。

「優劣とは何か」。僕はこれまで、その命題について考えを巡らせたことすらなかった。自明なことだとしていたのだ。A.アドラーは、「すべての精神の病は優劣から生じる」と警告しているけれど、他者に対する優越感や劣等感が行き過ぎると病となるのだ。こころの病から解き放たれるためには、優劣とは何かを捉えねばならない。

出会った瞬間から、あの壁の言葉には何らかの大きな意味があると直感した。だが捉えきれずにいた。原稿を校正していて"Ringokan"の壁の言葉を再び考える機会に恵まれたのだ。

果たして自身を否定する意識とは何か。

最近、ことさら大きなトラブルに4つ連続して見舞われ、自己否定することが多くあった。そしてその時は必ず、他者の目線から自分を見ていたと壁の言葉から思ったのである。

「これだけのものを書いた。どうだ」

すぐに違う意識が芽生える。

「あの人は俺を嫌っている」

どちらにしろ、自身の目で自分自身を見つめていない。

「こころを止めなさい」

タンマガーイ寺院の瞑想指導を受けていると、そう言われる。本当に落ち着くことができるのだ。考えてみると、こころを止めたとき僕は自分自身の目で自分を見ることができている。こころを逸らせるとは、他者の目で自分を見てしまうことなのだと思った。

他者1
他者2
他者3  → 自分
他者4
他者5

このとき、優劣が生じている。「あいつは俺をこう思っている」。優劣とはその意識なのだ。

そうではない、

自分 → 自分

自己認識は、自身の目線から自身を観察することであって、他者の目で自らを観察することなどは、ないものねだりの煩悩に過ぎないのだろう。

自己状態理論という研究群が存在する。それによると人は自分自身を認識したとき、社会的な行為に快楽を感じるようになる。反社会的な行動には不快感を感ずるという。究極の快感とは自己を認識することである。

いきなりだけれども、少しだけトイレの話をさせていただく。ご容赦願いたい。

私は小学校の時に面倒臭い悪戯にあって、人前でトイレをするのが嫌なのである。排尿恐怖というちゃんとした病名もついているそうだ。

他者に目線を奪われていたのだと思う。小学校の悪戯者の目線から自分を見ている。自分の目線から自分を見ずに。

「あいつがいたらどうするか」

でなく、

「自分の目線で見ているか」

トラウマとは目線を他者に奪われてしまったことかもしれないとも思う。先の可睡斎のトイレでは人がいてもしっかりとトイレができたのだ。これからも実験を続けることにしたい。

いやはや、やはり変人である。

Don't look at yourself through their eyes. 
「あいつらが見る目で自分を見るなよ」

自分の目線から自分を見てみることにする。これは案外な発見かもしれないとも思う。あれを書いたのはいったい誰なのだろうか。また篠原マスターのRingokanに行ってしっかり聞いてみようと思う。

そう。

「わたしはわたし」

最近人気のYouTuberのおろちんゆーも言っているのである。

お読みくださいまして、誠にありがとうございます!
めっちゃ嬉しいです😃

起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

下のリンクの書籍出させていただきました。
ご感想いただけましたら、この上ない幸いです😃


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