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真実とは女である。ニーチェ『善悪の彼岸』超訳

1.

真実とは女である。

哲学者はこの命題を真実としないかもしれない。だが、彼が女性を捉えきれていないだけだったらどうする。

すべて偉大なものは、世界を冒険の戯曲へと書き換える。

ならば真実は女であると言えよう。


2.

真実を求める意思とは何だ?

これこそが人を争いへと駆り立てた元凶なのだ。

カネという真実。
自尊心という真実。
女という真実。

すべての争いは真実への意思から生じた。

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3.

そもそも「真実を求める意思」などに価値はあるのか。

なぜ、我らは間違いではなく、誠を欲するのか?
なぜ、我らは不確実ではなく、磐石を欲するのか?
なぜ、我らは無知ではなく、賢さを欲するのか?

この問いは有史以来、立てられたことがない。
これを問わない以上のリスクなど、歴史に存在し得ないというのに。

4.

すべてのものは対立に起源を持っているのか?

正しさは間違いから生まれ、正義は欺きから生まれ、道徳は利己主義から生まれるというのか。いや、至高の価値というのは、そうではない。すなわちそのもの自身の中に起源を持つのだ。

スネ夫の価値はスネ夫自身から生じ、ジャイアンから生まれたわけではない。
寅さんの価値は寅さん自身から生じ、半沢直樹からではない。
鬼滅の価値は鬼滅自身から生じた。ドラえもんからではない。

私はこの本で、比較しか脳のないこれまでの真実に洗礼を施してやる。

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5.

哲学者の根本価値は、価値を逆転させることだった。そこでは疑うことが何よりも重要だった。

「全てのものを疑うべし」

と、ラテン語にあるように。
【de omnibus dubitandum.(デー・オムニブス・ドゥビタンドゥム)】

デカルトはこの手法で『方法序説』を書いた。すべてを疑った後に残る確実なものだけを探したのだ。そして、ただ疑うことだけが、真実であるとした。

6.

真実とは確実なものだけを意味してきた。すべての哲学者が「おそらく・・・(Perhaps!)」の力を無視してきたのだ。ここからすべての行動が生まれるというのに。

人は確実さに執着させられてしまうものだ。これはもう本能だと言ってもよい。さまざまを学び、「創造には行動が欠かせない」という方向に少しづつ進んでいっても、またすぐ確実さを求めてしまう。

だから、確実なものは不確実なものより価値があり、真実は幻想よりも価値が高いとされてきてしまったのだ。

しかし、我らはそんな単なる「確実な何か」、で測れるような存在ではないだろう? 

人を、モノの長さのように確実に測ることなどできはしない。測ることのできない何か他の基準で捉えねばならないのだ。

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7.

なんらかの衝動というものがある。回避できず、必ず行動に移してしまう衝動が。だからこそ衝動を哲学にせねばならないのだ。

しかし、そんな回避できない衝動とはなんなのだろうか?

人は、「こうなりたい」「ああなりたい」といって、それになれるものではない。そうではなく、「死」こそが明白にそして決定的に我ら自身を形づくるのである。

「あなたの墓標にはなんと刻まれたいですか?」
「あなたの弔辞にはなんと語られたいですか?」

人はすべて、確実な存在などではなく、なんらかの衝動を抱えた劇中の登場人物なのである。

8.

なんだって? おまえ、
『もっと自然に、悩むことなく暮らしたい』
だって?

おぉ、なんと高貴でストイックなのだ。おまえは。

想像したまえ。目的もなく、思考もせず、正義も哀れもない。誰からも関心を持たれず、ただそこに存在している。そんなものが理想だと言うのか。

たしかに人類はおまえの言うような世界を志向してきた。しかしそんなものは欺瞞だと言っているのだ。おまえは無視されるために、わざわざ辛苦を重ねるというのか。

だが、これまで哲学というものは暴君のごとく、そんな衝動を人に与えてきた。最も純粋な力への意思、世界を作る意思を求めてきたのだ。すなわち、因果律を求めた。

因果律
サラスバシーのcausationに酷似。
causa prima.

Nietzsche, Friedrich. Beyond Good and Evil (AmazonClassics Edition) (p.12). Amazon Classics. Kindle 版.

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9.

人が「考える」という時、それは普遍性について考えているのであり、それゆえ、自分が考えているわけではない。だれか他の者、有名な誰かが考えていることだと言ってもよい。その絶対普遍な真実を。

「絶対的な真実」だから、人に押し付けてしまう。争いも始まる。エゴが生まれる。

なんと馬鹿げたことだ。西暦1500年以来のストア主義が形づくった、現在の科学。それは他者を強制するだけではなく、自らも強制してきた。「真実」は我らを自縄自縛に陥れた。

I am free.
He must obey.

私は自由だ。
ゆえに彼は従わねばならない。

そして意に沿わぬときは、怒りに震え争いだすのだ。
因果律はいつも戦争を引き起こす。

そして因果はいつも我らに烙印を押す。
それは直線的だから、

「俺はこのレベルだが、お前はそのレベルか」

と言う。
因果の中で人は、常にこの目線で他者を見る。


(下はBric-à-bracの写真)
蚤の市などで見られる様式。サラスバシーのクレイジーキルト(上の写真)に酷似している。ニーチェはこれを社会に例える。現代の因果律の世界では、こうした多様な形でものを受け入れることはできないとする。直線的な思考が邪魔をするのだ。この論もサラスバシーと同じである。

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9.

私が提示するのは全く異なる「真実への意思」である。

それはすなわち、神の啓示を得たような、まるで生まれる前から知っていたような先験的な判断である。

世界を良くするための啓示。

それはなんでもいい。

整体で世界を良くする。
アロマで。
美容で。
ネットビジネスで。

実際、このような感覚を得なければ他者のために身を犠牲にして行動することはない。ジンメルやアダム・スミスが語るように、経済とは労働であり労働とは犠牲である。今の限界に達した欲望の経済をほろぼし、犠牲の経済を作らねば。そのために、これが必要なのだ。

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10.

ならばいったい、どうしたら天啓を受けることができるのか?

その中にある真実を見据えるのだ。因果論とは違う論理を持つ新しい真実を。

「その中にある真実」

を。

普遍の真実ではなく、私の中の真実を。
誰かの考えではなく、私自身の考えを。

そんな基準に基づくとき、神話的に行動する事になる。死や病やハンディキャップの力を借りて得られるとされる「非」自由意志。元アルコール中毒患者がアルコール中毒患者を救う。元ひきこもりがひきこもりを救う。

A.アドラーが言うように、「問題を抱えた人物こそが、その問題を解決する最高の資質を持っている」のだ。それは、天が命じた意思。神話的なものである。

あなたは誰なのか?
汝自身を知れ。

ドン・キホーテは、ルフィは、煉獄杏寿郎は、汝自身を知っていたから神話的な行動をしたのだ。

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11.

そんなピューリタン的な科学、天啓を得る生き方は、自らの内から湧き出すものだ。なのだが、正直言って殆ど見られることはないものなのだ。哲学者たちにとっても超絶にレアなのである。

こいつは、全く意味のない無価値なものに意味を見出し、強烈に人を動機付ける。たとえ一握りの動機しかなかったとしても、馬車いっぱいの動機へとすぐに変化してゆく。そう。イエス・キリストが、5つのパンと2匹の魚を分け与え5000人を満腹にさせた奇跡のように。

12.

彼らは身を犠牲にすることを厭わない。すなわち、自分の身体の重要性というものを、大地は動かないということと同様、さほど気に留めないのだ。

それだけではない。安全をいとも簡単に捨ててしまう、なくなってもどうでもいいと思っている。財産とか、地位とか、神でさえもだ。

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13.

真実が受け入れられないからといって、人と争うのなら、そんな真実などまるで何かのクリーチャーのようではないか。しかも、「受け入れろ」と誰か擁護者を必要としているというのだから、何とも情けない話ではないか。

それが因果の果てとなる。

誰にも受け入れられないものが真実ではないのかと言えば、そうではない。

だから、

自己という砦に逃げ込め。
群衆から、統制者から、普遍の脅威から身を隠せ。
客観から逃避することなしに、人の目が怖くなくなることはない。

古いラテンの神話にこうあるのだ。

Adventavit asinus, Pulcher et fortissimus.

「バカが到着した。美しく、もっとも勇敢な者が」

敗北の勇者となれ。
友との交わりが主となる新しい世界を作るために、キサマのような負け犬が必要なのだ。

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起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

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