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意識は自分と世界を分離させようとするが、存在は自分と世界が一体であることを伝えてくる

2022年2月15日、田原真人さんがFBに表題のような投稿をされていた。

「意識は自分と世界を分離させようとするが、存在は自分と世界が一体であることを伝えてくる」

哲学に興味がない方にとって完全スルーすべき一文だけれども、田原さんの友人師匠らは大きく反応していた。

流石は田原さんの人徳と友である。

私が同じことを言っても完全スルーされる自信がある。これが格の違いというものだ。

しかし去年のブルデュー読書会あたりからだろうか、僕の周りにも哲学の学びに火がついた。

今は西田幾多郎の『善の研究』を再読している。最新刊にかなり詳しく解説させていただいたけれど、読み飛ばしがある。

例えばこんなところ。

「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え・・・」

Kitaro Nishida. Zen no kenkyu (Japanese Edition) (Kindle の位置No.17-19). Kindle 版.

なぜ、この部分を引用させていただいたかと言えば、

田原さんの、意識と存在
西田の   個人と経験

が、良く似ているからだ。

個人の力量をただ上げようと躍起になるのではなく、関係性を経験して人の輪を作ってゆくことが重要になる、と僕は読んだ。

ならば人の関係性ってどうしたら作れるんだろうか。
田原さんと西田の論をさらに深く読みたい。

A.ミンデルは、頭の感覚(意識)ではなく、第二の感覚として体の感覚を重視するよう説いた。

頭で重要だと思うことと、体が重要だと思うことには大きな隔たりがあって、僕らは大切なメッセージを見逃してしまっているというのだ。怒りの背後にある寂しさだとか、見かけに隠れてしまっている個人史を。

書いていて思ったが、これが体からのメッセージだというのは少々分かりづらい。

なんと言えばいいか。正論に隠されてしまった自分の本当の気持ちが、蕁麻疹だとか体の向きや震えに現れたりする。そんなものだ。

この間、地元で開かれたある学会にお邪魔しようと思ったが、正論ばかり声高に叫んでいる宗教団体のようで、あまりに気味が悪く胡散臭かった。僕は部屋の外で立ち聞きをしただけで中に入らずに逃げ帰ることにした。

あの親切の押し売りのような場所に大勢の人がいたけれど、立派な話のベールに自身の気持ちが隠されてしまって、耳を傾けるべきものが分からなくなっている。そんな気がした。

あるいは、僕の方が未熟なだけだ。


話を元に戻させて頂くけれど、西田幾多郎読書会の豊さんが、こんな論を紹介してくれた。

「『知』のちからだけに頼るとき、人は、自分が万能であるかのように思い込むのです。そうした迷いから私たちを救い出してくれるのが『愛』のちからです」

残念ながらどこからの引用か分からないから、今度豊さんに聞こうと思う。豊さんのオリジナルだったら失礼千万だけれど。

田原さんの、意識と存在
西田の   個人と経験
豊さんの  知 と愛

経験とか関係性を受け取るものとして肉体(存在)がある。ミンデルやE.フロムは「現実だけが完璧な教師」であり「現実こそが神」だとしていたけれど、意識は神(現実)を受け取るものとしてあまりに不完全だ。

意識では世界を捉えられない。

ここで、田原さんの考察の「意識」を「頭」と、「存在」を「感覚」と勝手に言い換えさせてもらおうと思う。

「〈頭〉は自分と世界を分離させようとするが、〈感覚〉は自分と世界が一体であることを伝えてくる」

田原真人FBより

「頭で欲しいものって際限がないんだよ。お金がそうじゃん」
「砂糖だとか肉も際限なく欲しくなっちゃう」
「あれは体が欲しがってるんじゃなくって、頭が欲しがってるんだ」
「体が欲しがってるものをちゃんと食べれば、少ない量で満足できる」


丸の内の実身美さんみさんで、ヒデさんがこう教えてくれた。

玄米とか全粒粉のパン・パスタ、野菜や豆類を食べると、少量でもお腹がいっぱいになる。これには本当に驚かされた。

それにしても頭とか意識というものは、エゴ丸出しである。

偶然さっき浅沼先生に教えていただいたけれど、人の生きる意味とか価値とかは個人的体験によって共有できるものだという。フッサールが言っていたけれど、『正統的周辺参加』にもそうあった。

理屈でいくら「生きる意味」だとか「貴女が好きだ」とか説明しようとしても無駄だということである。肉体を持った自分がどう生きて、どう辛かったか。そんな話で人は愛を表現する。

意識とは神に対して悪魔なのかもしれない。

だって愛を表現できないではないか。

「へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』」

創世記3章4-5節

蛇に惑わされ知恵の身を食べた人は頭で考えるようになり、自らを神と勘違いするほどに増長した。

地にいることを忘れ、肉体を恥ずかしいものとして覆い隠すようになってしまった。

「彼はお前のかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」

創世記3章15節

これは「原福音」と言われる。

田原さんはキリストではないだろうけど、人は頭で考えるのをやめ、痛みながら足を地につけて歩み出す。彼の論はそんなことを語っている。

ケルビムと回る炎の剣が守る楽園には戻れないが、この地に楽園を築くのだ。

「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』」

「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕された」

「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守られた」

創世記3章22-24節

人は手を伸べて生きる意味を分かち合い、意識の上で不死となる。神はその地を耕し、再び人が絶望に帰らないようにされる。

ケルビムが、次は人を守るのだ。再び知恵の実を食べ、頭だけで考えることのないように。回る炎の剣は、人が痛みをこらえ地に足をついた勇気の象徴となる。

お読みいただきまして誠にありがとうございましたm(_ _)m
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