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その頂きにはなにがある



寝たきりの生活。寝たまま出して、寝たまま機械のお風呂に入っていた。辛うじて食事は座って食べていたが、オムツをつけたまま、無機質に並んだテーブルで、ただ黙々と食べることだけ許されていた。

おばあさんはリハビリの時間だけ離床することができた。訓練室では、いわゆる平行棒を使っての歩行訓練に始まり、様々なリハビリが行われていた。その中でも特におばあさんが頑張っていたのが、階段昇降だ。三段くらいの階段を登り、そしてまた降りる。それをひたすら繰り返した。おばあさんは、明日はきっとよくなるという夢をみながら、来る日も来る日も三段という頂をただただ登り続けた。

それ以外はベッドでの生活を強いられてきた。落ちてしまうからとベッドには四点の柵がされ、なにも身動きが取れない状態だ。おばあさんの毎日の訓練が活かされる生活は、そこにはこれっぽっちも存在していなかった。そしてその状況に、誰も異を唱えることはなかった。訓練すればよくなるとみんな思っていたのか。それとも訓練してもどうせ変わらないと、変わらない日常への免罪符として訓練を行っていたのだろうか。

そんな中、おばあさんはやってきた。入居してからおばあさんの生活を整えていく。まさに介護の真骨頂だ。まずはおばあさんと相談の上、ベッドの高さを調節。車椅子に移乗しやすいようにした。夜間はPトイレを準備。さらに居室トイレの環境も手すりや滑り止めマットを敷くなどして調整。昼間も夜間もトイレに通えるようにした。するとみるみる立位が安定し、それに伴い他のADLもほとんど自立した。なんてことはない。おばあさんには自分自身を生きようとする生活意欲は、最初からあったのだ。

あれから、当然のことだがあの三段の頂には登っていない。あの挑戦があったから今がある、なんてこともない。あの訓練のその先にある生活に、誰も興味がなかったのだ。訓練が全て無駄だとは思わない。だが、その頂にはなにがあるのか、そこを語れない訓練には意味がないのではないかと思うのだ。

「リーダーこんだけ良くなったよ~何でも自分で出来そう!」

それは、未来のために今を犠牲にした訓練の結果ではなく、いまここ、を大切にした生活に目を向けたからでた言葉だった。

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