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待てない僕らは



「立ちますよ~イチニノサン!」
介護現場でよく聞く声かけの一つ。車椅子やベッドへの移乗介助の際に、お年寄りから協力してもらうために使う言葉だ。
ところがこの移乗介助が、時に力仕事になっている場合がある。「イチニノサン!」と言って立ち上がってもらうはずが、完全に力を入れてるのはこっちだけ。おばあさんは宙を舞う結果となってしまう。

これは俗にいう待つ介護が行えるかどうかが肝心だ。あるおばあさんは「イチニノサン!」と言ったおよそ二秒後に力が入る。そのタイミングでこちらもそっと介助すると、上手く力が入り、おばあさんはゆっくりと立ち上がることができる。それを踏まえないで介助を行うと、もう立てなくなった、または指示が入らない、と誤った評価に繋がってしまう。しっかりおばあさんの力が入る瞬間を見極められるか、おばあさんにしっかりと伝わっているのか。介助はどちらかだけの意思で行うのではなく、コミュニケーションなのだ。

現代社会は待つことに不寛容になってきた。待ち合わせは携帯電話を利用し、遅れることがないようにする。電車は数分の遅延が発生すると、騒ぎになり、駅員が謝罪するほどだ。動画のダウンロードは一瞬で、速度制限がかかるとイライラする自分に気づく。一昔前は動画のダウンロード自体出来なかったのに。

日々加速していく世界。目まぐるしく状況は変化し、数ヶ月前の情報はもう古いものとして扱われたりする。無駄なものは省かれ、効率化こそが絶対正義となっていく。コロナ禍による様々なオンライン化は、無駄を取り去るには好都合だったため、瞬く間に受け入れられていったように思う。

待つということは、自分の影響外からの力に対する耐性のようなものだ。自分の思うようにいかないこと。どうしようもないもの。それらを受け止める感覚がなくなっていく。それはより自己責任論への傾倒に拍車をかけることに繋がるのだろう。他者への不寛容な世界は、直にお年寄りたちの生活に傷を与える。待てない僕らを、お年寄りたちはどう感じているのだろうか。
持ちつ持たれる、そして「待ちつ待たれつ」の世界は取り戻せないのだろうか。

なんてことを考えているうちに、おばあさんはゆっくりと立ち上がろうとして、僕とタイミングが合わずにまた座り込んでしまう。

「あ~すんません!もう一回いいすか??」

「ええよ~私待ってるから~」

待てるおばあさんに、許してもらえて安心したのだった。

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