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世界は意味で溢れている

コロナ禍が世間を賑わす中、経済への影響の深さが深刻だと、連日メディアで報道されている。確かに先日、ランチを食べに行こうとお店に向かうと、知っている店は軒並み閉店に追いやられていた。未曾有の事態に誰もが不安を抱える世の中になってしまった。

生産性、効率化、市場経済原理では、これこそ絶対の価値として、いかに効率よく生産していくかが肝要とされている。全ての言動に意味を問われ、無駄はことごとく排除されていく。ここに介護の居場所はあるのだろうか。

あるおばあさんはご飯前、エプロンの端を折り、そこをおしぼりでポンポンと押し付けていた。何往復かした後、今度は反対側も熱心に押し付けていて、エプロンはもうビショビショだ。そこでおばあさんに聞いてみた。

「それになんか意味あんの?」

おばあさんはこう答えた。

「うーん、特に意味ないよ!おもろいやろ?」

この行為はなにも生み出さないし、なんの意味もなかった。ただ、介護現場ではこんなことは日常茶飯事だ。もちろん、これでいい。何故なら「生活」は意味のないことで溢れているからだ。

旅行に行く意味などないし、外出する意味も、ランチを食べに行く意味も、生きていく上では必須条件ではない。だが、人はすべからくそれを求める。自らの生活に潤いを与えるために。おばあさんの行為も、おばあさんの生活に潤いを与えていたのかもしれない。

世界は意味を求めすぎている。
だから、意味のないことへの寛容さを失いかけている。世界は本来意味のないことに囲まれているというのに。
生活の在り方が問われている今こそ、意味のないことへの寛容さを取り戻そう。当たり前の生活に、自分らしさが支えられているということに気づかなければならない。
おばあさんのポンポンを見守ろう。エプロンの替えなら山ほどある。その行為自体を尊重し了解するのだ。

僕は昔ダンスに明け暮れていた。青春時代のほとんどを費やしたその行為に、世間は憐憫の目を向け、ずっと問い続けてきた。

「そんなことしてなんになる。将来なんの役に立つんだ」

衣食住の外の世界のダンスに、踊ることに意味なんかない。ただ、だからこそ、それぞれが踊る意味と価値を見出してきた。そこに踊りの数だけ答えがあり、創造性豊かな表現が、それぞれに生まれていたのだ。
そしてこれはおそらく、生きることそのものと同じことなのだと思う。生まれた意味なんかない。ただ、生きている。その存在そのものに価値はあるのだ。

世界は無意味で溢れている

僕がおばあさんのポンポンをやめさせても、おばあさんの生活は続く。なら、意味に囚われず、やりたいことをやろう。当たり前の生活の重要性に、世間が気づき始めた今、介護こそ必要だ。

さぁ、この無意味な世界で、一緒に踊ろうぜ。

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